ドラクエ3

□明けぬ空を背負って(本編2)
35ページ/39ページ

30−2

 ガルナの塔の最上階から、特殊な方法を用いて降りる空中庭園。その真ん中に、「悟りの書」と呼ばれる石版がある。
 賢者の悟りを求め、修業者が求めて止まぬ伝説の書だが、そこには悟りに至るための教え等一言も書かれてはいない。
 そこにはただ、古代神聖語の文字でミトラ聖典の一文が記されている。
 ミトラが、人に智恵を与え、獣と人を分けたときの一文だ。
 牙と爪を振るうべき先、獣はそれを知っているが、人はそれを知らない。強き爪や牙を持たぬが故に、得た刃の振るい方を考えねばならない。故に人は悩み、闇を抱える。
 旅立つ前のディクトールは、聖典のこのくだりを、ただ欲望に飲まれぬ清く正しい心を持てという教えだと解釈していた。
 神官ならば、そう考えるのは当然で、清い心で癒しと清浄の力のみ求めればよかった。けれどディクトールは、旅の中で戦う力を求めてしまった。風の精霊を操り、体内の水の力を阻害する。禁呪とよばれる魔法の力だ。そのお陰で、仮死状態にある体に活力を取り戻す魔法も習得したが、失われた組織の再生には全く役にたたなかった。
 神官が癒しの力を求めるように、魔道士は破壊の力を求め、制御する術を探る。
 癒しと破壊の力。そのどちらをも修め、結合させ、更なる力を求めるのが賢者だ。神と等しく、創造の力を持ち、強大な魔力を振るう魔法のスペシャリスト。「神に至るもの」、あるいは「神に選ばれしもの」。
 人は、心に闇を持つ。
 得た力を振るう誘惑に常に抗い続けねばならない。獣ならば、生存のためにしか振るわない牙と爪を、人は自己顕示や自己満足のために振るうのだ。
 誰かを嫉む心、傷付くことを恐れる心が、人を昏く歪ませる。
 その闇こそが、相反するはずの癒しと破壊の力を融合させる賢者の力だ。
 今ならば解る。
 神は、これまでディクトールが信じていたような存在ではない。
 神に近しき存在が賢者であるなら、賢者とは、狡猾に世を欺く悪魔のような存在なのだろう。

 石版の前でディクトールは瞑想を続けている。
 塔の全域に結界を張り巡らせてから、もうどれほどこうしているのか。時間の感覚はなくなっていた。
 最後に食事をとったのはいつだろう。睡眠は?
 不思議と空腹も疲労も感じていなかった。もしかしたらたいした時間は経っていないのかもしれない。
 目をつむっているのに、妙に意識が鮮明で、周囲の風景が見えるような気がする。視覚も、聴覚も、感覚のすべてが遮断されているようで、いつもよりはっきりと物事を捕らえているようでもある。
 突然その声は聞こえて来た。耳に、確かに届いた。はたと目を開き、顔をあげ四方に目を走らせる。西に沈みかけた太陽が投げ掛ける強い黄金の光。不気味な橙色に染まった空。
 声は、空から聞こえたものか、はたまた地下から響いて来たのか。
 魂を揺さぶり押さえ付け、逃げることを許さぬ圧倒的な力で捕らえて締め上げる。微塵に砕かれかき消えてしまいそうな存在感。
 ディクトールは必死に耐えた。喉も裂けよとばかりに声を上げ、全身全霊でもってその重圧に抗う。それでも、跳ね退けることも出来ない。ちっぽけな自分を、必死に繋ぎ止めているだけで精一杯だ。
 ディクトールには永劫の苦しみに思えたが、それこそ一瞬の出来事であったに違いない。
 ぶざまに床にはいつくばり、滝のように汗を流しながらも、ようやくわずかに顔だけ上げる。荒い息を吐きながら、周囲に視線を走らせる。
 気配はまだ去っていない。先ほどより薄れてはいたが、まだいる。ディクトールを見ている。

「――まさか…」

 ひび割れた唇から漏れたのは、声といえないくらいの掠れた音。
 全身の震えが止まらない。
 ディクトールは気付いてしまった。この圧倒的な存在感の持ち主に。
 ディクトールは知っているのだ。幼少より慣れ親しんだ、この感覚。この気配。

「ミトラ―…」

 神が笑うとしたら、間違いなくこの時神は、平伏した従僕を見下ろし嗤っていた。
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ