ドラクエ3

□明けぬ空を背負って(本編3)
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 ぞわり

 空気が鳴った。
 少なくとも、アレクシアはそう感じた。
 城の、否、国中の空気が、ここ王の寝室に集まったかのようだ。風など吹くはずもない密閉された空間に、気流が生まれ渦を巻く。
 寒くなどないのに、背中に悪寒が走った。
 嫌な気配がする。このままレイモンドを行かせてはならない。

「レイ!」

 ボストロールの息の根を確認しにいったレイモンドに駆け寄ろうとするアレクシアの腕を、ディクトールが掴んで止める。思わず厳しい目で睨んでいた。心配してくれるのは有り難い。だがこれでは邪魔どころか敵を利する行為と変わらないではないか。

「放…」

 苛立ちとともにアレクシアがディクトールの腕を振り払った時だ。ばぁん、と音を立てて窓と扉が開いた。窓からはアレクシアが地下で感じた瘴気が、扉からは夢遊病者のごとき城の人々が雪崩れ込んでくる。

「何よ、こいつら!」

 リリアの声はほとんど悲鳴だった。虚な眼(まなこ)を見開いて、人々はアレクシア達に襲いかかって来る。知能を持たぬグールどもを前にしているようだ。爪を立て、歯を剥き出しにして食らいつこうとしてくる。人か、魔物か。判断がつかない。だが操られているだけなら、殺すわけにはいかない。

「このっ」

 振り払った侍女の一人が、たまたま家具の角に額をぶつけて倒れた。倒れた拍子に正気に戻ったらしく、侍女は額を押さえた手に血が滲むのを見て悲鳴を上げた。そしてすぐに、自分を取り巻く状況に気付いて、さっきよりも大きな悲鳴を上げる。そんな彼女を仕事仲間が襲った。
 知人の姿を認めてその名を呼ぶ。一度は否定しようと首を振ったが、現実は彼女の理解を待たずに襲いかかってくる。彼女に出来たことは、意識を手放し死に身を委ねるか、せいぜい抗って喚き騒ぐくらいで、どうやら彼女は後者を選択したらしい。
 喚く女のお陰で夢遊病者達が操られた人間であることがはっきりした。はっきりしたが、事態を余計に複雑にしただけだ。
 人間は殺せない。襲われているならば助けなければならない。

「助けないと」

 焦って駆けつけようにも、喚く女とアレクシアの間には何人もの夢遊病者が行く手を阻んでいる。操られている人間にラリホーが効くかは不明だが、そのくらいしか打つ手がない。効果範囲を目一杯拡げれば、仲間も巻き込むだろうが夢遊病者達を一度に無力化出来るかもしれない。最悪なのは、正気を保っている人間だけが眠ってしまうことだが…

「アレク!」

 背後で上がった鋭い声が、アレクシアの思考を中断させた。
 振り返ると、あの瘴気が夢遊病者の一人を取り込もうとしている。一瞬夢遊病者の瞳に正気が戻り、恐怖に歪んだ顔はみるみる膨らみ紫色の化け物と化した。かと思うと、トロル化した体が溶けて、床に倒れるボストロールの側に流れて、吸収されるように消えた。焼けた肉体を引きずって、ボストロールが上体を起こす。
 更に瘴気はレイモンドの体を包み込んでいる。
 紫色のガスの中で、レイモンドの顔が苦し気に歪む。抜け出せないのだ。秀麗な顔の右半面に狂気が浮かぶ。抗う左半面の苦悩はより深くなった。

「レイ!!!」

 腕を伸ばしても届かない。それでも伸ばさずにはいられなかった。


 レイモンドが叫び、目の前で人が魔物に変わったのを、ディクトールも見ていた。心の中に、得も言われぬ興奮と感動が生まれる。あのような魔術、見たことがない。魔法には、まだまだ自分の知らない秘術があるのだ。
 陶然と見詰める視界の端にレイモンドの苦悶する姿もあった。ああ、このままあの男は醜い肉の塊に姿を変えるのだ。思わず、唇に笑みが浮かぶ。あの男さえいなければ、アレクシアは自分のものだ。危険な冒険など続ける必要もない。何故なら世界は、ゾーマ様の手によって正しい姿を取り戻すのだから!

「レイ!!!」

 アレクシアの叫びが、ディクトールの正気を呼び戻した。
 心に浮かんだ黒い思いが、どの程度本心だったのかわからない。認めたくはないが、あれが自分の本心なのかもしれない。

(だとしても)

 悲痛に歪むアレクシアの顔。
 このままレイモンドを見殺しにしたら、彼女はディクトールを許さないだろう。それに、悲嘆に暮れるアレクシアの姿など、見たくはない。

「空を渡る者。風は淀むことを知らず」

 ディクトールは生まれ育った教会で魔法のなんたるかを学んだ。魔法は神が人に授けた偉大な奇跡。人の身で神の御技に解釈を加えて改変するなどあってはならないことだ。

「全てを育み、全てを還すもの。地の精よ。腕を伸ばせ」

 そう、思ってきた。
 ガルナの塔で、悟りの書に触れるまでは。

「刃となりて切り裂き、ガイアの懐に還せ」

 バギとニフラムの複合魔法。初めての試みだったがうまくいった。突如発生したつむじ風に、ディクトール以外の全員が身動き出来ずに我が身を庇う。
 暴風に襲われ部屋を転がることになった人々は、痛みに正気を取り戻した。そして瘴気は、吹き散らされ浄化されてゆく。
 なにが起きたのかわからないと、目をぱちくりさせる人々が見たものは、破壊された王の居室と、王のローブの切れ端を纏う化物の姿だった。

「ひ、ひぃぃぃっ!」

 誰が最初に上げたのかはわからない。悲鳴は呆気ないほど簡単に狂気を拡げ、人々が恐慌に飲まれるのにさしたる時間はかからなかった。
 逃げてくれるならその方がいい。居座られても邪魔なだけだ。
 腰を抜かして動けないでいる人には手を貸してやった。それでも出鱈目に出口に殺到する人に揉まれて、何人かは踏まれて怪我をしたし、もっと運のない者は命を失った。
 それなりに運から見放されていたのはレイモンドも同じだ。
 混乱の最中、中途半端な復活を果たしたボストロールの攻撃を、たった一人で引き受けねばならなかったのだから。

「ぎゃあ!」

 半ば骨が覗いた緑色の腕が、逃げ惑う人を捕らえた。すさまじい悲鳴が止んだ理由は、確認したくない。
 思わず目を背けたアレクシアの耳に、バリ・グシャリと骨を砕き肉を咀嚼する音が届いた。
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