ドラクエ3
□明けぬ空を背負って(本編3)
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隠れ家を出たレジスタンスの男達は、ゼケットの案内で郊外の打ち捨てられた館から地下通路に入った。
本来は脱出用に作られたものだが、同様の隠し通路が他にも何本もあるというのが通説だ。地下牢に繋がる抜け道なら、レイモンドもひとつ知っている。あの日の出来事を思い出すと、胸が悪くなる。あの老人は、どうなっただろう。盗賊ギルドが壊滅し、あの老人を看取る者がいない今、とても生きてはいられないだろう。
「うわっ」
物思いに耽ていたレイモンドは、列の真ん中辺りから上がった声に振り返った。見れば通路の足元に水溜まりが出来ており、そこに足を捕られた不注意者が尻餅をついている。
「なんだ。驚かすな」
「すまん」
仲間の手を貸りて立ち上が−−ろうとして、男はもう一度倒れた。何をやっているのかと笑おうとした仲間は、笑おうとした口そのままで悲鳴をあげた。苔の生えた水溜まりだと思われていたドロリとした緑茶色の泥濘が意思を持っているかのように盛り上がり、手を貸した男に襲い掛かったのである。
同様の物体が、通路の壁や床石の隙間から所々で滲み出し、男達を襲う。列のそこかしこで悲鳴が上がり、隊列が乱れ、男達は恐慌状態に陥っていた。
「ち!」
レイモンドは大きく舌打ちし、太股のベルトからアサシンダガーを抜き放った。狭い通路を疾風のように走り、すれ違い様に男の体を包む半流動体を切りつけていく。一太刀で、半流動体は水の様に崩れ流れた。
「バブルスライムだ。毒がある。触った奴は水で洗っておけよ!」
水気の多い場所に生息しているバブルスライムは、スライムに比べれば強敵だ。しかし、多少なりとも戦いの心得が有れば、手を焼く相手でもない。生息地も分かりやすいのだから、用心さえしていれば遅れをとることはないのだ。それなのに…
(この様とは)
侮蔑とともに唾を吐き捨て、レイモンドは新たに壁に滲み出たバブルスライムを、見もせず鞭をしならせ押し潰した。
「な、なんだ。スライムかよ。驚かせやがって」
笑みが恐怖に強ばっている。虚勢の上に何重にも虚勢を貼る男達に一瞥もくれず、レイモンドは列の先頭へ向かった。
「ゼケット」
肩を捕まれた男は目だけでレイモンドを振り返る。
「あいつらを戻らせろ。役に立たないどころか、到着前におっ死ぬのが関の山だぜ」
役にたたないだろうことは初めからわかっていた。邪魔にさえならないなら、彼らがどうなろうと知ったことではない。彼らが起こすであろう混乱に乗じて、己が目的を果たすくらいのつもりでいる。否、いたのだ。
『見捨てるつもりなのか』
暗に見捨てるなと告げていた青い瞳を思い出す。
(見捨てねぇよ…)
あの瞳の前で嘘はつけない。彼女と交わした約束を、嘘にすることはできなかった。
「聖水は撒いているんだ。たまたまだろう」
「聖水だって?」
レイモンドは不審気に眉を寄せた。聖水を撒いているなら、バブルスライムなんて出てくるわけがない。そう言おうとした瞬間、悪寒が走った。
「!!」
言うより先に体が動いた。身近にいた二人の襟首を掴んで床に引きずり倒す。さっきまで頭のあった場所を、死の旋風が凪ぎ払った。悲鳴も上げられずに、首と胴体を切断された死体がどさりどさりと崩れ倒れる。その段になってようやく、幸運にも生き残った連中が騒ぎ始めた。狭い地下通路の中を、完全に恐怖に飲み込まれた男達が右往左往する。誰かが倒れて、それを別の誰かが踏みつけて、新たな死体が出来上がる。
「待て! 行くな!」
レイモンドの制止の声は断末魔の叫びに掻き消される。立ち上がった若者が見たものは、2年前の惨劇によく似た光景。混乱から離れた場所に居たものが、たまらず胃の中のものを吐き出した。レイモンド自身も、競り上がる不快感を必死にこらえていた。
「レ、レイ…」
真っ青な顔でレイモンドの袖にすがる指揮官をレイモンドは一瞬だけ見た。端から無理だったんだ。そうは思っても今さらどうしようもない。じっと血煙の向こうに目を凝らす。動くものが極端に少なくなった通路の臼闇の中から、何かがやって来る。サマンオサの街全体を包む異様な空気のお陰で気付くのが遅れたが、それは2年前のあの日に感じた視線とよく似ていた。
「ゼケット。俺が食い止めるから、お前は生きてる連中をつれて先に行け」
「つ、ついてきてくれないのか!?」
「誰がアレを止めるんだよ! お前らを守りながら戦っていられるか!!」
電流に撃たれたように、ゼケットが身をすくませる。
「わ、わかった」
「死ぬなよ」
腰を抜かして立てずにいる仲間に肩を貸してやりながら、ゼケットは頷いた。それを確かめている余裕は、レイモンドにはなかった。
死を引きずって、異形の魔物が近付いてくる。
臼闇の向こうから現れたのはトロルだった。これがどのように作られた魔物なのかは知っている。もとの人間の人格がどれ程残っているのかは解らない。ただ、もう二度と元に戻れないことだけは確かだ。
悲鳴を上げて助けを求める男が、断末魔の叫びを上げて絶命する。それを合図にしたかのように、レイモンドは唱えていたピオリムとバイキルトを発動した。
抜き身の長剣を携えて走る。死の淵に半ばまで浸かった男達が横を行き過ぎるレイモンドにすがるような眼差しを向ける。助けてくれと手を伸ばす。それらがまるで実態を得たかのように、レイモンドの体に重くのし掛かる。ピオリムを掛けた筈の体が、酷く鈍く感じた。
ごめん。無理なんだ。全てなんて助けられない。
レイモンドに向けて投げつけられた、人であった肉の塊を左にステップを踏んでかわす。予測していたかのようにバギの旋風がそこを襲ったが無視した。より速度を上げて、かまいたちを突っ切る。
僕は勇者なんかじゃない。まして神でなんかあるはずがないのだから。
(!?)
トロルの大腿部を切りつけた姿勢で、レイモンドは動きを止めた。
眼前に広がるのは地獄と化したかつての楽園。
或いは津波に、或いは溶岩硫に飲み込まれ、火山噴火の大地震により破壊し尽くされた大地。
そこに息づいていた命は、彼の目の前で生き絶えた。
救いを求める目。救われることのなかった怨みの目。死者の呪詛が、頭から離れない。まとわりついて離れない。
「あ、あああ…」
レイモンドの手から剣が落ちた。耳を塞ぎ、目を閉じても、それらは決して彼を離しはしない。
「うわあああああああ!!!」
それは誰の叫びだったのか。
絶叫するレイモンドの体から閃光が迸り、今しもレイモンドを背後から握りつぶそうとしていたトロルの上半身を、跡形もなく吹き飛ばしていた。
逃避中、水苔に足を滑ら足を挫いた女性にホイミをかけるための小休止をかけた時だった。ディクトールがそれに気付いたのは。
わずかに眉をしかめ、前方を険しい表情で見詰める賢者に、治療を受けた女性も不安そうに賢者の視線を追い掛けた。
自らの行いが他人に不安を与えたことに気付いて、ディクトールは若者らしい表情で苦笑した。神職にあるものが、救いを求めている者の前で不安を顕にしてはならない。小さく頭を振り、改めて笑顔を作る。
「足は痛みませんね? 直に地上です。少し休んで、もうひと頑張りしましょう」
自然な笑みでその場を離れたディクトールは、一行に小休止を告げた。怪我人は居ないか声を掛けながら、列の先頭に合流する。先頭にいる元兵士は、ディクトールの感じた違和感に気付いていた。黴や汚泥の臭いに混じる、鉄錆の臭いに。
何をいうでもなく、兵士は目で頷いた。ディクトールも目礼で返して列を離れた。この先で血が流れたのは確かで、戦いが待つにしろ怪我人が待っているにしろ、適任なのはディクトール以外にいない。
気配を殺して、辺りに注意を払いながら進む。
たいして進みもしないうちに、ディクトールは前方の暗闇から人間が近付いてくるのに気付いた。
足音は複数。余程慌てているのらしく、足音は乱れて人数までは特定できないが、多くはない。二人か、多くても三人。
角を曲がれば正体がわかる。いつでもバギを放てるように、慎重に歩みを進めるディクトールの前に、足音の主はなんの警戒もなく姿をさらした。
「助けてくれっ!」
目を血走らせてディクトールの神官服にすがり付いたのは、トロルの襲撃から逃れてきた、ゼケットと床屋の三代目だった。
目は血走り、視線は定まらず、走ってきた為とばかりとは思えない呼吸の乱れ。
何を問うても男達の回答は要領を得なかった。
その中から情報を繋ぎあわせ、ディクトールが導き出した答えは、およそ正鵠を射ているだろう。
「聖水を撒いたといいましたね。まだ持っていますか?」
「あ、ああ」
震える手が小瓶を差し出す。それの中身を確かめて、ディクトールはやはりと表情を険しくさせた。異端の信仰が蔓延るこの国で、まともな聖水が手にはいるとは考えづらい。聖水を作るための祈りを捧げる司祭の数も、施設も明らかに不足しているのだ。そしてディクトールの推測通り、聖水の瓶に入っていたのはただの水だった。
「これを、誰が?」
「ミアが…、仲間の女が」
不可抗力か、どこかに悪意が存在したのか、そこまではわからない。
ただレジスタンスが掴まされた聖水が偽物で、彼等が全滅したこと、ディクトール達が目指していた進路上に凄惨な光景が待っていると言うことだけは確かだ。
それから、恐らく戦うことになるだろうことも。
「仲間がいたと言いましたね」
まだ生きているだろうか。いや、恐らく無理だ。
問うディクトールに、ゼケットがはっと顔をあげた。怯えきった顔に、それでも責任を負うものの毅然とした表情が浮かぶ。
「俺達を逃がすために…っ! お願いだ! レイを助けてくれ!」
いかにも神官然とした青年の瞳に、一瞬暗い影が宿ったのを、見たものは誰もいなかった。