ドラクエ3

□明けぬ空を背負って(本編3)
20ページ/108ページ

34-4

 どこをどう走ってきたのかわからない。ただ走って、走って。
 とにかく離れたかった。
 否、逃げ出したかった。
 現実から、何もかもから目を背けて、投げ出してしまいたい。
 なのにそれができないから、こんなにも息が苦しいのだ。
 息が切れて、足がもつれる。

「イテっ」

 どんっ、と誰かにぶつかった。ぶつかった相手もつんのめったが、足がもつれていたアレクシアは石畳に尻餅をつく。
 痛い。そう思ったら、涙が出た。



「痛ぇな…ったく」

 毒づきながら、青年はぶつかってきた相手を非難の目で見た。自分も考え事をして、上の空だったことなどはおくびにも出さない。さも自分は被害者だという顔をして、相手に加害者意識を持たせるに限る。吹っ掛けられるだけ吹っ掛けて、寂しい懐を暖かくしたい。

「どこに目ぇ付けて…」

 続く言葉は出てこない。足元に倒れた相手に見覚えがあったから。倒れた姿勢のまま、半ば足を投げ出した格好で尻餅をついているのは誰あろう。アレクシアだ。

「おまっ、なんで…」

 なんでこんなところにいるのか、という問いも飲み込んでしまった。
 目を見開いたまま、アレクシアは涙で頬を塗らしている。文句を言うのも忘れて、レイモンドはアレクシアを引っ張り起こした。
 土埃を払ってやりながら、様子を伺う。見たところ怪我をしているわけではなさそうだ。
 転んだのが女で、それが泣いているとなれば、通行人の興味を誘う。非難めいた視線をレイモンドに向けてくるものもいる。ばつが悪いことこの上ない。
 ぶつかったのがレイモンドだと解っているのかいないのか、アレクシアはまだ涙を流したまま、まばたきもせずに立ち尽くしている。彼女がこうなる理由は、聞かなくても解るような気がした。そもそもひとつしか思い付かない。レイモンドの胸にも、苦く重いものがのし掛かってくる。しかし今は、とにかくアレクシアを何とかするのが先決だ。
 レイモンドはアレクシアの肩を抱いて人通りの少ない木立へと引っ張っていった。抵抗されるか、動かないのではないかと思ったが、アレクシアはレイモンドの導きに、素直に足を進ませる。
 野次馬の視線は、暫くレイモンドの背中を追ってきたが、飽きたか本来の目的を思い出したかしたのだろう。やがて思い思いの方向へと散っていった。
 やれやれと密かに溜め息をついて、ちらりと肩の辺りに視線を落とす。
 まだ涙を流したままのアレクシアに、レイモンドは天を仰いだ。

(勘弁してくれ)

 ギャップがありすぎる。しかしそうか、これも女だったんだな、と、ディクトールが聞いたら激怒しそうな事を胸中に呟いて、レイモンドはひとつ咳払いをした。

(まばたきくらいしろっての)

 それから無造作に、アレクシアの頭を引き寄せる。

「誰にも言わないから、しっかり泣いちまえ」

 その言葉が合図だったように、アレクシアは声を上げて泣き始めた。
 だらりと垂れ下がっていた両手は、いつの間にかレイモンドの服をしっかりと握りしめている。

(やれやれ…)

 シワになるな、とか、アレクシアが化粧をしていなくてよかったとか、どうでもよいことを考えた。
 風に乗って鼻梁をくすぐる甘い香りに、花でも咲いているのかと視線を巡らせ、その花が腕の中にあることに軽く目を見張る。
 少し前にディクトールが同じようにアレクシアを抱き締めていたとは露とも知らず、レイモンドはアレクシアを抱き締めた。服が濡れるのも構わずに、ただ優しく、癖のある髪を撫でてやる。傍目にどう写るかなど気にしなかった。アレクシアが落ち着いて泣き止むまで、そうしていようと思った。理由など、考えもしないで。



 実際には数分、長くても10分程度のことだっただろう。鳴き声がしゃくり上げに変わり、それも収まってくると、状況の把握が出来ずに混乱が頭をぐるぐると回り始める。
 人前で子供のように声を上げて泣いた事は勿論恥ずかしいが、それ以上に今の状況に全身から火が出そうだ。
 顔が上げられないのは、恥ずかしいからばかりではない。アレクシアの頭を一掴みに出来そうな手が、子供をあやすようにぽすぽすとリズムを刻み続けているからだ。
 そういえば、頭の上の方で歌が聞こえていた。

(…子守唄?)

 馴染みのない異国の旋律。しかしこのゆったりとした調子は子守唄であるに違いない。
 あの、レイモンドが、どんな顔をして歌を、それも子守唄などを唄っているのかと思ったら、途端に興味がわいた。
 視線を上向かせて、それでも足りなくて顔を上げる。

(う、わ…っ)

 見なければよかった。
 僅かに上げた顔を、アレクシアは直ぐ様下に戻した。赤いであろう顔を隠してしまいたくて、目の前の布地に額を押し当てる。
 停まるのではないかと疑いたくなるくらい痛みを伴う強さで跳ねた心臓は、停まるどころか激しく鼓動を打ち始め、やはり痛みを訴えている。
 心臓が痛いなんて由々しき事態だ。どんな深刻な病気だろう。
 ああ、でも病気とは違うような気もする。
 明後日な事を考え始めたアレクシアの側頭部が、小気味良い音を立てた。

「ぁ痛っ!」

 布を掴んでいた手を離して、はたかれた頭を押さえる。
 自然、あいた隙間を吹く風の、なんと冷たいことか。
 濡れてシワだらけの胸をなで擦りながら、レイモンドは呆れ顔でアレクシアを見たが、ばつが悪いのはお互い様らしく、すぐに視線を街並みへと向けた。

「気がすんだか」
「あ、うん。ごめん」
「言うな」

 謝罪を、だろうか。それとも子守唄だろうか。
 意味を測りかねて首を傾げたアレクシアに、レイモンドは苦いものでも噛んだかのように顔をしかめた。

「いいから全部だ。お互い様だろが」

 背けた横顔の、髪から覗く目許が微かに赤い。
 こちらこそ、黙っていてくれと拝み倒さなければならない立場だろうに、アレクシアはつい、ぷっと吹き出してしまった。
 まだ心臓は、どきどきと騒いでいるけれど、もう痛くはない。なんだか、暖かなものを感じる胸騒ぎだ。
 くつくつと笑い続けるアレクシアを恨めしげに見たあとで、レイモンドも溜め息を吐き出すように笑った。

(笑ってる)

 よかった、と呟きかけて、はたと口をつむぐ。
 確かに女に泣かれるのは得意ではないが、面倒に思いこそすれ、笑顔を見たいだなんて感想を抱くレイモンド様ではないはずだ。

(どうかしてる)

 小さく舌打ちひとつして、レイモンドはその場で踵を返した。

「レイ?」

 海からの風は、防風林を越えて街にまで届く。春とはいえまだ風は冷たく、服が濡れているとなれば殊更身に堪えた。

「行くぞ」

 首だけ巡らせそう言うと、レイモンドは返事も待たずにさっさと歩き始めた。慌てたアレクシアが涙の跡を拭っている間に、どんどん彼我の距離は離れていく。

「どこへ…」

 行くんだ、とアレクシアが言い切る前に、「察しの悪い女だな」と聞こえよがしに呟いて、小走りに隣に並んだアレクシアの額をパチンコの要領で弾く。

「痛っ」

 デコピンされた額を押さえて、恨みがましく見上げてくるアレクシアを、いい気味だと鼻で笑う。

「さっきから気安く叩きすぎじゃないか」
「ん」
「う…」

 濡れたシャツをどうだとばかりに引っ張られて見せ付けられては、もう返す言葉もない。

「忘れろって自分でいったくせに…」
「“忘れろ”とは言ってないだろ。“言うな”って言ったんだ」
「…同じじゃないのか?」
「違う」

 にや、と笑うレイモンドを、アレクシアはいや〜な顔で見た。

(こいつっ、恩に着せる気かっ)

「男が小さいこと言ってんなよ」
「商魂が逞しいんだと言えよ」
「おまえ商人じゃないじゃん」

 こんな調子でぎゃあぎゃあやりあいながら、中抜け通りを並んで歩く。楽しそうに、ともすれば騒がしいこの少女が、つい少し前に、ここで泣いていた少女と同一人物だとは誰も思わないだろう。

「そうだ」

 宿に着くなり、レイモンドは真顔に戻ってアレクシアを見た。いきなり真正面から見詰められ、どきりとアレクシアの心臓が跳ねあがる。

「おまえ、顔、不細工になってるぞ」
「なっ」

 思わず両手で頬を押さえたアレクシアに、今度はレイモンドが吹き出す。

「冷やしておけよ。じゃあな」

 あれだけ泣いたのだから、まぁ当然と言えば当然だが、もう少し言い様というものがあるだろう。
 駆け足で階段を上っていく背中に、アレクシアは「いー、だっ」と悪態をついた。
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ