◆キリ番の作品

□一万Hit記念部屋
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石焼きイモ4

 あれから何度かの冬をともにし、結婚という幸せの形を築いた。
 長いようで短かった学生時代を過ごしたアパートも、今ではマンション建設予定地になっている。
 アパートが取り壊される前に、二人でアパートを訪れた。
 老朽化した汚いアパートだったけれど、変えがたい2年半の思いがそこに詰まっている。

「写真にでもとっておくか?」

 抱き寄せた肩は、少し痩せたように思う。
 ふるふると首を振って、蘭世は俊を見上げた。

「ありがとう。連れて来てくれて」

 今度は俊が、無言で首を振る。
 産まれて間もない赤子が、蘭世の腕の中でふにゃりと弱々しい泣き声を上げる。
 二人して赤子を覗き込み、母親がとんとんと背中を叩いてやると、やがて赤子は大人しくなった。

「寒いのかな?」
「どうかしら? こんな時間にお外に出たことないもの。興奮してるのかも」

 息子をあやしながら優しく微笑む妻を、俊は目を細めて見詰めた。

「…行くか」
「うん」

 体を寄せ合い歩き出す。
 その姿は、誰が見ても幸せそうな若夫婦だ。
 けれど彼等の顔に浮かぶ表情は、どこか悲しげで、世を儚むような、諦めた老人のような印象を受ける。

「…あ」

 新築の住宅が並ぶ一画で、彼等は足を停めた。不自然な空き地が、その前にはある。
 夫は妻の肩に回した腕に、僅かに力を込めて抱き寄せ、小さな頭に頬を寄せた。
 かつてそこに、『真壁』と標札のかかった家があった。そこには、若夫婦が住んでいた。しかしそれを知るものは、この世界のどこにもいない。
 否、たったひとり。
 運命の悪戯に翻弄された、無力な少女ひとりきり。
 彼女が今どうしているのか、知る術が無いわけではないが、それをすることは禁じられていた。

「無力、だな」

 自嘲気味に吐き出された言葉の真意を、問い質そうと息を継いだ時、妻もまた夫の言わんとするところを理解した。
 彼等の前を通りすぎた黒塗りのセダンに、二人がよく知る人物が乗っていたのだ。
 色素の薄い巻き毛を肩で切り揃え、綺麗にメイクした顔を凛々しくしかめて。
 彼女はあんなつまらなそうに、夜を見詰める人だっただろうか。
 彼女の記憶の殆どを占めていたであろう俊。また俊の中でも、彼女のいない日々はなかった。
 自分は仕方ない。当事者なのだから。
 けれど彼女の記憶を、人生を奪う権利等、自分にはない。誰であろうと、そんなものはあってはならないのだ。
 自分達の記憶を失った彼女が、自分達の知っている彼女とは違うのではないかという恐怖がある。
 例え記憶を取り戻す日が来たとして、その時の彼女は、世界は、自分達の知るものだろうか?

 震える蘭世の肩を抱く俊の手に、蘭世の手が添えられる。
 例え世界が変わっても、互いがここに在る事は変わらない。
 見つめ合って、目だけで頷きあった時

「いーしーやーきいもー、おいもーやーきたてーのおいもだよー」

 路地の向こうから、懐かしい声と香ばしい香りが風に乗って運ばれて来た。
 冬になると、毎年聞いていた、馴染みの声。

「懐かしいな…」

 次聞くときは、いつも一年の間が空くのに、この時ばかりはひどく懐かしく思えた。切なくて、一人でいたなら泣いていたかもしれない。

「必ず戻ろう」
「ええ」

 二人が出会い、供に過ごしたこの世界に。
 大切な人々が待つ、この街に。

「またやり直せばいい」
「そうね」

 例え彼女が自分達を忘れていても。自分達の知る彼女と、今の彼女が違っていても。共にしてきた時間は、真実なのだから。

「いーしーやーきいもー、おいもーー」

 焼き芋屋のトラックがその道を通り過ぎたとき、そこにあった若夫婦の姿は風のように消えていた。






 春。
 再会を喜び抱き合う妻と幼なじみの姿を、俊は目を細めて見詰めた。
 自分達の選択は、間違いじゃなかった。共に過ごして来た時に、偽りはなかったのだ。
 自分達がいない間、世間は変わったかもしれない。けれど自分達を取り巻く世界は、変わらずに自分達を受け入れてくれた。

(帰って、来たんだ…)

 木漏れ日に目を細める父親の視線を追って、赤子は空に手を延ばす。光を、雲を、掴むように。





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