◆キリ番の作品
□ときめきのキリリク
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先伸ばしにしてきた報い
逸る心を抑えて、通い慣れた道をいく。宙を歩くように足元がふわふわしている。ともすれば本当に浮いてしまいそうで、俊は時折足元に目をやりながら、わざとゆっくりアスファルトを踏み締めた。
そこの角を曲がれば、庭が見えてくる。広い敷地はまるで森のようで、夏休みになれば、まさか私有地とは思わない子供が甲虫を捕りに来たりする。
木々の合間に、長い黒髪を見たような気がして、俊は我知らず相好を崩した。
「江と…」
呼び掛けは途中で消えてしまった。彼女の側に、見慣れない長身の男がいる。
(誰だ)
距離が近い。
笑顔の男が蘭世の肩に手を置く。それを嫌がるでもなく、蘭世も笑顔で応じていた。
先日の、別れ際の泣き出しそうな笑みを思い出す。
あんな風に楽しそうな蘭世、俊はここ数日見た覚えがない。
おれの前ではあんな顔しない癖に。
出来ないようにしたのは自分なのだが、冷静ではない今の俊にそんな判断が下せる筈もない。
地面を踏み抜きかねない勢いで、俊は元来た道を駆け戻っていった。
鳥の飛び立つ音に、木立の向こうに目をやる。
「あ…」
「どうかしましたか。蘭世?」
「あ、ううん。何でも」
視線を感じたような気がした。ついさっきまで、そこによく知った気配があったような。
「気のせいね。きっと」
だって彼なら、何も言わずに去るはずない。
それに今はジムにいる時間だ。こんな所にいる訳がない。
会いたいと、彼のことばかり考えているから。だからこんな勘違いをするのだ。
「ヘンリー、お使いに行きましょう。このくらいなら、もう眩しくないでしょう?」
「そうですね。サングラスをしていきます」
生粋のヴァンパイアには夕方の陽光さえつらいのかと、蘭世は苦笑せずにいられない。
「20年もしたら、真夏の昼間も出歩けるようになるわよ」
「そ、そんなものですか…」
「そんなものです」
ばしん、と背中を叩かれたヴァンパイアが恨めしそうに蘭世を見る。秀麗な顔があまりに見事に崩れたので、蘭世は思わず吹き出してしまった。
「ひどいなぁ…」
「ごめん。でもだってヘンリー、それは変わりすぎよ。彼女に会うまえに、それは直さなくちゃ」
「善処します」
生粋のヴァンパイアであるヘンリーが、花嫁にと望んだのは人間の娘で、彼女を迎えるために、彼は人間界へとやってきたのだ。
文字通り崩れた顔を手で戻しながら、ヘンリーは想い人の事を話す。
魔界と人間界の境が曖昧になるハロウィーンの晩。魔界に迷い込んだ少女。ヘンリーは彼女と恋に落ち、再会を約束して別れた。
「住む世界が違うと、一族の者達には反対されました」
町中には、地元の有名人となった俊のポスターが至るところに貼られている。
住む世界が違うといえば、蘭世も似たようなものだ。
最初は魔界人と人間。ヘンリー同様、住む世界が違う報われぬ恋だった。俊が魔界人だと分かっても、今度は身分が違いすぎた。しかし俊は王家には戻らなかった。蘭世と共にこの町に戻ってきた。それが彼なりの答えだと嬉しく思っていたのだ。しかし今は、俊は有名人、蘭世はしがない一般人。
やはり、俊と自分は違う世界の住人なのだろうか。
「やだな。何故蘭世が落ち込むのです? 私は一族を説得し、こうしてヨハンナを迎えに来られた。彼女を一族に迎えて、悠久の時を共に過ごすことができるのですよ」
「そうか。そうよね。えへへ、ごめんなさい」
目尻に浮かぶ涙を払って、蘭世はぺろりと舌を出す。
ヘンリーの恋人は、きっとヘンリーとの約束を守って、彼の到着を待っているに違いない。夢物語のような一夜を信じている彼女に比べれば、蘭世の恋は余程真実味がある。同じ町に住み、何年も共に過ごした。それなのに蘭世が、俊を信じられずに不安がってどうするのだ。
「ねぇ、ヘンリー。彼女がどこにいるのか、わかっているの?」
ヘンリーは恥ずかしそうに目許を染めて、蘭世の耳に素早く唇を寄せた。
「っ!」
囁かれた内容に蘭世の頭からボンッと湯気が上がる。
「蘭世と俊王子に比べたら、飯事(ままごと)のようでしょう」
「う、や、え〜〜ナハハハ」
笑うしかない。
飯事遊びなのは自分の方だ。
ヴァンパイアは自分が純潔を散らした乙女の所在を、見失うことはないのです。
真偽のほどは定かではないが、まさか父・望里に尋ねるわけにもいかない。
蘭世は顔を真っ赤にしたまま、ヘンリーの惚気話を聞く羽目になった。
アパートに戻ってもやることもなく、無理矢理に眠ろうとしたがそれも出来ない。
結局俊は時間よりも早く部屋を出て、バイト先に顔を出した。そしてそれすら後悔することになる。
工事現場を迂回して、道路の反対側を歩く、仲良さげな男女は誰あろう。蘭世とあの男だ。
なんでこんな思いをしなければならない?
こんな、こんな惨めな思い。
誘導灯を握る手に力がこもる。
原因は全て自分にある。それがわかっているから、口中に沸き上がった苦さを、ぐっと我慢するより俊には出来なかった。