Novel:Blue

□+Strawberry+
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リサイタルが終わり、関係者に後を任せて早々にホテルに引き上げた俺は、身体をソファに沈めて深く息を吐いた。
忙しかった日々に暫しの別れを告げて、このまま少しだけ眠ろうと瞼を下ろしかけたところで、誰かが近づいてくる気配をキャッチする。ハンターとは違うようだ。しかし、警戒するに越したことはない。
専用のカードキー以外は防犯装置が作動するはずなのだが、正規ではない方法で、あっさりとロックが外される音がした。開く扉に神経を尖らせ、身構えた俺の瞳に映ったのは、最愛の兄の姿だった。


「はろう♪」


さらりと細い栗色の髪を揺らし、カノンは片手を振って、にこやかに笑いかけてくる。小さな吐息とともに笑みを零して、俺は戦闘体制を解除した。
アサヅキが引っ掛かるであろう程度の防犯装置では、カノンの前では役立たずだ。それもまあ、想定内だから問題はない。
軽い抱擁を交わす。俺は無意識に擦り寄ったらしく、カノンが微笑んだ気がした。温かな腕に包み込まれ、耳元で囁かれる。


「お疲れさま、アイズ」


カノンに背中を優しく叩かれると、蓄積した疲れが昇華していく。名残を惜しむ前に身を離す。


「客席で鑑賞させてもらったよ。上手く言えないけれど、いつにも増して艶のある旋律でとっても素敵だった。特に――」


瞳を輝かせ、事細かにリサイタルの感想を熱弁するカノン。過ぎるほどの褒め言葉の羅列は素直に嬉しいが、聞いていてこそばゆい。とくとくと高鳴る鼓動に、胸のあたりが熱く、苦しくなった。


「そうか。ありがとう、カノン」
「ふふ、どういたしまして。ああ、そうだ……これ、プレゼントだよ」


俺はカノンから持ち手つきの白い箱を受け取り、中を覗く。しっかりした生クリームに艶やかな苺がのったショートケーキ、そして薄黄色の柔らかそうなスポンジに白いクリームが包まれたロールケーキが一つずつ、箱の中に行儀よくおさめられていた。


「二つあるのは何故だ?」
「僕も食べようと思って」


にこりと笑みを向けられて、頬に熱が集まったことを自覚した。俺は何故、カノンの一挙一動に、こんなにも熱に浮かされた感覚に陥いるのだろう。
熱が引きかけるまで俺が自問している間に手際よくケーキを皿に移し終えたカノンは、俺の隣に腰を下ろした。また少し、心音のテンポが速まる。浮くような跳ねるような心境はどうしようもなく不可解だが、こんな気持ちも悪くはないと思う自分がいる。


「アイズは、どっちのケーキがいい?」
「そうだな…」


俺はちらりと二種類のそれを見やる。そして迷わず、ロールケーキを選択した。
ショートケーキの上にのせられたスペシャルな苺を、最後の最後に食べる。他のケーキにはない、この魅力が好きなのだと、以前カノンが情熱的に主張していたからな。
案の定カノンは破顔して、ショートケーキがのった皿を引き寄せつつ、特別な苺について語り出した。


「美味しい」


カノンは満面の笑みを浮かべて、ケーキを口に運んでいる。見ているこちらにまで伝染したようで、ふっと己の口元に微笑が乗った。言葉にならない幸福感がわき上がり、胸の内にゆっくりと広がって自身を包んでゆく。
そっとスポンジにフォークを沈めて、一口。思ったほど甘さは重くなく、爽やかなレモンの風味が微かに感じられた。


「はい、アイズ」


カノンが持つフォークの先に、ころりとした存在感のある苺。それは艶々と輝きを放ちながら、俺の目の前に差し出された。
恐らく、食べろということなのだろう。けれども俺は確認の意をこめて、カノンに視線を投げかけた。


「特別だからとわざわざ取っておいたのではないのか?」


するとカノンは一度瞬いた後、猫のようにまるく大きな瞳を細めて微笑む。そして、俺に促すようはっきりと頷いた。


「そうだよ。だから、アイズに食べて欲しいんだ」


アイズは、僕にとって特別だからね。
愛情のこもった眼差しで見つめられ、心臓が破れてしまうのではないかと思うほど、俺はカノンに反応した。
禁断の果実を差し出されたような心地で、俺はそっと口を開く。苺を口内に招き入れ、閉じたままフォークを抜き取る。薄い表皮に歯を立てれば、甘い酸味が広がって喉を潤した。


(――ああ、そういうことかもしれない)


瑞々しい果肉を咀嚼しながら、唐突に俺は理解した。
己のなかにある、カノンへ向かう感情や抱く想い、不可思議な気持ち。すべてはカノンが言う、ショートケーキの上にのせられた苺と同じだということを。


「美味しい?」
「ああ」
「ふふ、よかった」


騒がしい心の真ん中の、さらに奥。
胸を打つ静寂の瞬間に深く、深く落ちたのは、誰かを愛し始めた音。自分自身の内側から、それは確かに聴こえ、波打ったのだった。
俺は未だ鼓動を速めたまま、手にしていた皿に視線を落とした。そして残る黄色をシルバーでつつき、カノンへと差し出す。


「カノン。俺は、最後の一口が別格なんだ」


そう言って小さく笑えば、カノンは少しだけ驚いた表情を見せる。しかしすぐに口元を緩ませて、俺の言動を察知してくれた。


「ありがとう、アイズ」


最後のケーキのひと欠片。それは「嬉しい」と呟き顔を綻ばせたカノンに、ぱくりと貰われていく。幸せそうにケーキを頬張るその様子に再び、俺の心臓はとくりと跳ねた。



+fin+

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