00部屋参

□口唇
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 真っ赤な口唇が、誘うように動く。笑みを浮かべた薄い唇には、真っ赤な紅。その紅を全て舐めとってしまっても、その唇は艶めかしいままなのだろうか。
 馬鹿馬鹿しいことを考えながら、その、俺を溺れさせる美しい顔を、自分でも嫌になるぐらいに厭らしい顔をして見つめる。長い睫毛が、ゆっくりと瞬いた。じれったそうな、表情。それすら俺の快感になるのは、独占欲のようなものだろうか。それともただの愚かさゆえか。
 


「どうしました?」



 美しい男はそう俺に問うた。曖昧な笑みを浮かべた俺は、目だけでその首に触れる。きめの細かい滑らかな肌は、おそらくどんな女のものより美しい。
 この男の歳を俺はよく知らない。同じように、この男の本当の名も知らない。知っているのはこの顔と、声と、体だけ。矜持が高いこと以外は、何を好んでどうされたいのかも、分からない。返される反応は、すべて教え込まれていることでしかないのだ。
 組み敷くのが勿体ないような気がして、焦らすように視線だけを這わす。もしこの体に触れてしまえば、もう歯止めは利かなくなる。そしたら時間だけが飛ぶように過ぎて行って、こいつは、  こいつは、俺じゃない誰かに抱かれることになるのだ。そんなの、そんなの耐えることなどできるはずがない。
 矜持の高い相手は自ら体を寄せてくることなどない。だが、時折わざとらしく、色の付いたため息をついて見せる。きっと俺以外の人間見せることなどないだろう。駆け引きの中に何処となく見える初々しさが、俺の欲を煽る。



「ニール様、」
 


 客のことを名前で呼ぶのはそれが流儀だからだ。それなら俺をもっと本気にさせてくれ。その敬称なんか取っ払って、『ニール』とただ一言、俺の名前を口にしてくれ。そうすれば俺はお前を奪って逃げてやる。自由にしてやる。名前で呼んでくれ。その艶やかな声で、ただ一言、俺のことを呼ぶだけで良いんだ。
 震える手を伸ばして、鮮やかな唇に触れた。ついと人差し指でその上を撫でると、その唇が弓なりに微笑む。甘い瞳。柔らかい、唇。
 この笑みを一体何人の男に向けてきたのだろうか、



「グラハム」
「何でしょうか」
「好きだ」
「私もです」



 なんて嘘のような返答! 今まで一体何人の男に、そう囁いた?  何人の男がお前に溺れていったんだ?
 あぁ好きだ愛しいなんて美しいんだろう、たとえお前が俺のことを客としか思っていなくても、俺はお前に恋い焦がれてしょうがない。囚われてしまってしょうがない。その綺麗な顔が、お前の商売道具である顔が、作り物の艶めかしさではない、本当の表情に染まってくれれば良いのに。俺が染めることさえできれば良いのに。
 本当になんて愚かなことだろうと思いながら、俺はその絢爛豪華な着物に手を掛ける。それから、腰に手をまわし、毒のような唇に貪るように口付けた。
 細くなる鮮緑。血の色に染まる、頬。



「愛してる」
 


 その鮮やかな唇で俺の名前を呼んでくれ、愛しい人。
 そしたら俺はもう、死んでも構わない。




(お前の唇の毒が、俺を殺すんだろう?)






 

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