00部屋参

□蜘蛛の糸
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 誰もいない、真っ暗なところにいた。
 いつからいたのかは覚えていない。ただ、気付いたら俺はそこにいた。他に人はいなかった。闇はどこまでも果てしなく続くのに、そこには、俺ひとりだった。
 暗闇の中にいるうちに、俺はどんどん、寂しくなっていった。周りには誰もいない。俺は孤独だ。早くここから抜け出したい! だけど、一体どうすれば、ここから抜け出すことができるんだ?
 暗闇の中に座り込んでいると、俺の目の前に、一筋の赫い糸が下りてきた。
「これは……」
 立ち上がり、糸が何処から垂れてきたのかを探してみる。すると、どこまでもどこまでも、空から続いてきていることが分かった。しかし、空はやっぱり暗闇で、一体どこまで糸が続いているのか、どこから垂れてきているのかはよく分からない。
「でも、ここにいるよりはマシだよな……」
 俺は決意して、空から垂れてくるその糸を握った。そして、腕だけを頼りに、その糸を上りはじめた。
 糸は、思いの他頑丈だった。俺がぶら下がっても、ちっとも切れる気配がない。それに俺は顔を明るくして、するする、するすると、糸をたぐりながら上っていった。
 ところが。
 どこまで行っただろうか。随分と上ったところで、ぷつり、と突然糸が切れてしまった。
 転落した俺は、再び、暗闇の中に閉じ込められた。
「クソ……ッ」
 折角のチャンスをふいにしたことがショックで、俺はその場に座り込み、もう一度糸が下りてこないかと、じっと上を見上げていた。
 どれくらい見上げていただろうか。
 気付くと、目の前に、前と同じような糸が、下りてきていた。
「今度こそ……!」
 俺は勢いよく立ち上がり、糸にぶら下がってその強度を確かめると、するする、するすると、細心の注意を払いながら糸を上りはじめた。
 しかし、結果はまた同じだった。糸は切れてしまい、俺は闇の中に転落した。
 それを、何度繰り返しただろうか。
 俺が闇の中で何本目かの糸を待っていると、すぐ傍で、にゃあ、という鳴き声が聞こえた。驚いて立ち上がると、そこには、真っ赤な目をした黒猫がいた。
「……お前もひとりなのか?」
 恐る恐る俺が話しかけると、猫はにゃあと鳴いて、それから、おもむろに口を開いた。
「君と一緒にしないでよ」
「!?」
 猫が口をきいた。そのことに驚く俺に構わず、猫は流暢に喋りつづける。
「俺の周りにはいつでも人がいる。見えないのかい? 君が見ようとしないだけかもしれないね。とにかく、君と一緒にするのはよしてくれ。俺はひとりじゃない。君とは違うんだ」
 小馬鹿にしたような口をきく猫に、頭にカッと血が上った。
「何がひとりじゃない、だよ。お前はひとりじゃねぇか。ここには誰もいねぇぞ」
「そう思っているのは君だけだよ。君には見えないだけだ。最下層のここにだって、俺たちの他にも人がいる。ただ君がそれを人間だと認めたがらないだけだ。君は目を瞑っているんだよ」
「お前……!」
 猫を蹴り飛ばそうとして立ち上がるが、猫は身軽に俺の足を避ける。そして、「いいのかい?」と首を傾げた。
「俺がいなくなったら、君はまたひとりになる。それでもいいのかな?」
「! それは……」
 確かに、ムカつくとは言え、人間じゃないとは言え、他に生き物が現れて、安心したのは事実だった。
 それから、俺は、渋々ながら、その猫と話し続けた。猫は饒舌で、俺はそれに敵わなかった。怒りばかりが募った。だけど、同時に、それが少し、楽しくもあった。
 猫と話している間も、時々、空から糸が下りてきた。俺は毎回それを上ったが、猫は上ろうとしなかった。
「お前は上らねぇのかよ?」
 俺が尋ねると、猫はしっぽを揺らして答えた。
「俺は上に行こうと思えばいつでも上れるよ。ただ、上は楽しくない。だからここにいるだけだ」
 それに、と猫はくすりと笑った。
「君は決して上に辿り着くことはできない。俺はそれを知っているからね」
 いつもいつも、猫はそう、俺が恐れていることを指摘した。そんなことはない。そんなことは決してない。俺は自分にそう言い聞かせて、上り、そして、転落した。
 どれだけ、闇の中で猫と過ごしただろうか。
 とにかく、とても長い時間、そこにいた気がする。
 そして、あるときのこと。いつもどおり、垂れてきた糸に掴まって上ろうとすると、珍しく、猫がいつもと違う言葉を口にした。
「潮時みたいだね」
「……え?」
「バイバイ、シズちゃん」
 猫の言葉に、どこか不吉なものを覚えつつ、もしかしたら、と思いながら、俺はどんどんと糸をたぐっていった。
 そして。
 いつもどおり、糸が切れてしまう、と思ったところで、上から日に焼けた手が伸びてきた。
「あと少しだべ! 負けんなよ、静雄!」
 聞き覚えのある、懐かしい、声。俺は反射的にその手を掴むと、糸の切れた部分より上を掴みなおして、また糸を上っていった。
「尋ねます、何をしていますか。早く来ることを要請します」
「静雄お兄ちゃん、早く!」
「静雄!」
「兄さん!」
 糸が切れるたび、上から手が伸びてきて、俺はそれに支えられながら、どんどん上まで上っていった。
 そして。
 気付いたら、雲のようなものの上にいた。
「ここは何処だ……?」
 きょろきょろと辺りを見回していると、バン、と後ろから背中を叩かれた。
「待ってたべ、静雄!」
 振り向くと、そこにいたのは日に焼けた、ドレッドヘアーの男。
「トムさん……」
 反射的に頭に浮かんだ名を口にすると、「遅いです」と少しムッとしたような声が今度は正面から聞こえてくる。
「尋ねます。いつまで待たせるつもりですか」
「おっ、ヴァローナ、怒ってるな?」
「否定します。怒ってなどいません」
 正面にいたのは、金色の髪にライダースーツの女。
「ヴァローナ……」
 彼女の名を口にしていると、今度は腰に衝撃が走る。
「静雄お兄ちゃん、待ってたよ!」
「茜、」
「待ちくたびれちゃった」
 えへへ、と笑う少女に、俺の顔が綻ぶ。
 それを皮切りに、どこからか、どんどん人が集まってきた。
「静雄、」
「平和島さん、」
「静雄、」
 名前を呼ばれ、肩を叩かれ、もみくちゃにされる。俺の胸が、安堵感でいっぱいになった。
(ああ、ひとりじゃないんだ)
 手を引かれ、パーティー会場のようなところに連れて行かれる。酒を勧められ、口をつけ、いつから食べていないか分からない料理を、ゆっくりと口にする。
 やがて、パーティーが終わって、皆が片づけを始めた。手伝おうとしたが、主役なのだからそこでのんびりしているようにと言われたので、手持無沙汰に、そこらへんにあった椅子に座っていた。
 そして、猫のことを、思い出した。
「あいつは……まだ闇の中にいるのか……?」
 ひとりぼっちなのに、自分の周りにはたくさんの人間がいると、そう言い張っていたあの猫。何という名前だったか。思い出そうとしたが、思い出せなかった。そう言えば、名前を知らない。
 急に、ひとりであの闇の中にいる猫のことが気になって、もう一度下に下りようと思い立った。自分が来たところへ戻って、たぐってきた糸を探す。けれど、糸はどこにも見当たらなかった。
 無性に、寂しくなった。
 ここにはたくさん人がいる。たくさん人がいて、自分に優しくしてくれる。自分を欲してくれる。けれど、ここには、自分と一緒に闇にいてくれた、あの猫が、いないじゃないか。
 あの猫。
 あの猫は、まだ、ひとりぼっちで闇の中にいるのだろうか。俺のいないところで、寂しがっているのではないだろうか。あの赤い目から、涙がこぼれているのではないだろうか。
 足元の雲をかきわけて、下を覗く。そこにはどこまでも闇が広がっている。黒い猫の姿は、闇と同化して、どこにも見えない。
 息を吸い込んだ俺は、知らず知らずのうちに、猫の名前を読んでいた。

「――――臨也!」

 声が闇の中に反響する。
 返事は、聴こえなかった。
 ここにはたくさん人がいる。俺はひとりじゃない。だけど、
「お前がいなきゃ意味がねぇんだよ、臨也……!」
 唇を噛み締めて、俺は、あいつを思い浮かべる。
 脳内で、雄弁なあいつが、にゃあ、と鳴いた。








Sasakure.UKさんの「蜘蛛糸モノポリー」が好きすぎて浮かんだ話。どっちかって言うと芥川の「蜘蛛の糸」に近い。
まあそのままの話です。



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