00部屋その五
□嘘と愛
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ただいまと言う声と、ドアを閉める音。
「おかえり」
廊下で出迎えた俺は、コートを脱いでいるグラハムの体を引き寄せて唇を重ねた。三回キスをすれば、二回返ってくる。
二週間前から、グラハムは軍に復帰している。
記憶障害も一部的なものであると判断され、仕事をする上での障害は特にないという診断結果が出た。身体能力も回復し、自己の前とほぼ変わらない状態にあるらしい。
一緒に暮らしているのが俺であるということ以外は、何一つ変わっていない。
俺が一緒に暮らしているということを、グラハムは誰にも話してはいない。言わないようにと、俺の方から頼んである。
俺がここで暮らしているということを知っているのは、刹那たちだけ。その刹那たちでさえ、俺が兄さんのふりをしていることは知らない。
「ニール、夕食は」
「準備中だ」
音を立てて頬にキスし、肩を抱き寄せながら歩く。
グラハムのことを何も覚えていない。そんな嘘をついていた。
他のことは覚えているのにグラハムのことだけは思い出せない、そんな記憶障害。だから誰もが俺のことを話さなかった。だけど、刹那たちからグラハムのことを聞いて、会いに来たくなった。
何という嘘だろう。
グラハム自身が記憶障害でさえなければ、まったく通用しなかったような言葉だ。
「アンタって、本当に俺のことが好きだよな」
兄さんのことが好きだよな。
冷蔵庫の中をあさりながら言ってやれば、グラハムはくすくすと笑う。
「好きだよ。何よりも愛している」
「フラッグの次に、だろ」
「まさか。どちらを選ぶこともできないぐらいにだ」
生真面目な返答。普通の人間が聞けば怒りだしそうだが、それが彼にとっての最上級だということぐらいは知っている。
兄さんの恋人。偽りの俺の恋人。蜂蜜色の髪と存在。甘い、甘い。
手にしていたりんごを放り投げて、まな板の上に置く。それから、林檎より甘い男の元へ、ミートパイ片手に向かった。
「ミートパイは好きだっけ?」
唇を寄せて問うと、おかしげに返される。
「君が作ったものならなんでも」
じゃれるように髪に口付け。くすぐったがる横顔は無邪気そのもので、どうしようもなく欲に駆られる、
壊したい、欲しい。
この男は言った。
『君が私のことを覚えていなくても、私は構わない。私が君を愛しているという事実に変わりはないのだからな』
『それに、もう一度、君を私で埋め尽くしてしまえば良いのだから』
言葉通り、俺はすっかり魅了されてしまった。
グラハムが呟く。
「以前よりも、キスの回数が多くなったな」
何気ないその一言に、一瞬動きを止める。だけど、すぐにその顎を掬いあげた。
「ニール?」
「大事なのは、今の俺だろ」
噛みつくようにキスをする。
口内の酸素を全部奪い取る。その存在を埋め尽くすように、俺で溢れるぐらいに。
俺だけのもので良い。
「……グラハム」
でも、そんなに俺が愛しても、この目が見ているのは俺じゃなく兄さんだ。俺が演じている中の兄さんを見ているのだ。
それでも俺を愛してほしい。
兄さんではなく、俺のことを。
重ねた唇はこれほどかと言うほどに甘く、そして、どうしようもなく苦かった。