00部屋その五

□嘘と愛
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「ニール」
 俺と向き合ってワインを飲んでいたグラハムが、ゆっくりと呟いた。
「ニール」
 その声のとろんとした甘い響きは、アルコールよりも強く俺を酔わせる。グラスの中を空にしてしまった俺は、その顔をじっと見つめて答える。
「なんだよ」
「私は、思うんだ」
「何を」
「私たちが一緒に居ることは、奇跡なのだと」
 甘ったるい声。毒のように鮮やかで、重い。輝きの詰められたエメラルドには、水分が多量に含まれている。その半分はおそらく、アルコール入り。何処か退廃的で背徳的で、罪の中に生きる堕天使のような顔だ。唇から洩れる声は呪文にも等しい。俺を離れられなくさせる。呪い。本人に自覚がないのだから、余計に性質が悪い。呪いはいつも、受けた人間が勝手にかかるのだ。それなのに、その鎖を求める俺は言葉を返す。まるで、愚かな罪人のように。
「酔ってんだろ、アンタ」
「かもしれないな。それならそれで良い。ただ、ニール、今私たちがこうしていることは、きっと神の気まぐれだ」
 違う、神の罰なんだ。神が与えた、俺への裁きだ。その言葉を俺は呑み込む。
「私は軍人で君は殺し屋。私も君も、幾つものものを奪ってきた。それなのに、私たちは出逢った。二人の人殺しはたちまち恋に落ちた。……ナンセンスな話じゃないか。人を愛すことを許されない私たちだからこそ、愛しあったんだ」
 現と夢との境界をぼやけさせる曖昧な声。ファンタジィのようなブロンド、美しさ。堕とされた天使の声は、バーでかかるジャズのように、いとも簡単に人を酔わす。アルコールか麻薬のように、容易く他人の心を捕えてしまう。
「君が帰って来ない、誰もが君のことを口にしなかったあの間……私は、これがその罰なのだと思っていたよ。私を断罪する為に、神が君を奪ったのだと」
 でも、とグラハムは笑う。甘く甘く砂糖菓子で、俺を粉々に砕いていく。その言葉は聞きたくない、と耳が叫ぶ。悲鳴。イエローの危険信号。脳をガンガンと鳴り響くそれらに、グラハムの声を遮ってしまいたい誘惑に駆られる。
「グラハム、」
「君は戻って来てくれた。私の元へと」
 喜びに満ちた、幸福の砂糖細工のような声だった。その声が遠く聞こえる。エコー、鳴り響く。
 俺はぎこちなく微笑んで、グラハムの赤く染まった頬へと指を這わせた。顔を近付けて軽くキスしてやれば、大きな瞳が細くなる。目蓋を指でなぞり、睫毛に口付ける。
「もう寝ろよ。明日も仕事だろ」
「あぁ、そうだな。……すまない、ニール」
「気にしちゃいねぇよ」
 深く、ワイン味の口付けを交わす。
 繊細な金色のカーテンが、輝く宝石を覆い隠していく。
 俺の心など、露ほども知らずに。



















 白い白いベッドに横たわる男を見下ろす。愛情とも何とも形容しがたい感情がで渦巻き、その矛先がこの男に向いている。愛しさ、寂しさ、幸福感に不幸を呪う感情。矛盾して混濁して濁り切っている。
「ニー……ル」
 薄い唇が、呼ぶ。
 その唇を塞いでやりたい。白く美しい喉を締め上げて、名を呼ぶ声を止めてやりたい。不快だ、苦しい。その名を呼ぶことをやめてくれ。求めることなんて、その男を求めることなんて、もうやめてくれ。
 兄さんは死んだんだ。
 あのテロの日に、他でもない、グラハムのことを護って。





















 
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