00部屋その五

□ある男の話
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 男が生を受けたは、アメリカのシカゴだった。
 産まれたのは第一次世界大戦の十年前。一家の四番目の子供、三男として、家族全員に祝福されての誕生だった。父親は教師、母親は専業主婦。金銭面で困ることも特になく、恵まれた家庭だったと言える。
 少年期をシカゴで育った彼は、活発な子供として、大人に可愛がられて育った。親の職業に反して成績は悪かったが、それをカバーするだけの愛嬌と運動神経を彼は有していた。友人も多く、時には喧嘩もしたが、大きな悩みもなかった。恋愛も人並程度かそれ以上に経験し、世間の厳しさというものを特に感じないまま、青年期へと移行していく。
「人生は意外と楽かもしれない」
 それがこの頃の彼が考えていたことである。
 しかし、ハイスクールを卒業したところで、それ以上の進学を断念する。男には、カレッジに進めるだけの頭脳・勉学に対する興味が欠けていた。そして、本人も特に進学を希望はしなかった。むしろ彼は、親から離れて独り立ちしたいと考えてさえいた。世間体ばかりを気にして口出ししてくる親は、彼にとって重荷でしかなかったのだ。勿論、親はそれを認めようとしなかったが、彼は卒業と同時にとある自動車工場の内定を取り、そこに就職する。
 それからの日常は、苦労ばかりであった。
 甘くはない現実。社会というものを突き付けられた彼は、その厳しさに愕然とする。今までの生活が恵まれ過ぎていたのだが、苦労を知らずに育った彼は、今を受け入れることが出来ない。
「こんなところに就職したのが間違いだった」
 彼はそう考えるが、特に目立った能力も持たない彼の再就職先は、なかなか見つからない。そのうちに本人も転職する気は失せ、工場に馴染めないまま、歳だけが過ぎて行く。
 そんなある日のことだった。
 彼のいる工場にも新人が入り、男自身は新入りから抜け出した。しかし、彼自身の変化より、その新入りの存在が、とても大きなものだった。
 新しく入ってきたのは、まだ少年と評しても良いような外見をした青年。艶やかな金髪と女性のように白い肌、小柄な体と、工場などに入社していること自体が奇異に思える。そのことを男が問うと、青年はヘラりと笑って答えた。
「俺は車を解体するのが好きなんすよ」
 妙なやつだと彼は感じたが、自分とは関係ないかと思った男は、また今までと同じように仕事を再開する。
 しかし、彼の変人さは、次第に明らかになっていった。
まるでいつまでも少年期を引きずっているかのように、彼の情緒は不安定であった。上機嫌になったかと思えば、すぐに不機嫌になる。一応仕事はするし、目上の人間を敬いはするのだが、皆扱いづらさはこのうえなかった。
しかし、工場は彼を追い出すわけにはいかなかった。人格的には多少と言わず問題があったが、青年は特殊な技能を持っていたのだ。それは、まったく傷を付けずに機会を解体するという、器用さと集中力が必要とされるものである。試しで組み立てた機械をパーツごとに解体する――それはつまり、パーツを一つも無駄にしないということである。
 そして、そんな彼の世話を任されたのが、当の男である。
 男は彼との接し方に困惑しながらも、徐々に青年に惹かれていく。
 たとえば、時折見せる無邪気な表情であったり、ネガティブになった時に見せる正真正銘の涙であったり。パッと見ただけでは分からないほどに鍛えられている、強い腕であったり。男と同じかそれ以上に青年は馬鹿であったが、しかし、魅力のようなものを兼ね備えていた。そういった人間に心を惹かれるものは多い。そして男も、その一人であったのである。
「俺、何かを壊したくて仕方がないんすよ」
 それが青年の口癖であった。事実、彼はいつでもレンチを持っていて、食事と睡眠以外は何時も、何かを壊しているようなものであった。
 しかし、そんなある日。
 禁酒法下のこの時代、工場はこっそりと密造酒を造り始めた。始めは自分たちの楽しみのために、気付けば商売のために。同じようなことをしていた組織はシカゴにも多々あったが、大型の機械を大量に隠しておくことのできる工場は、他より多くの酒を製造することが出来る。男は何となくそれを手伝い、彼自身もその恩恵に預かっていた。
 誰も、それが間違ったことだなんて考えていなかった。
 そもそも禁酒法自体がおかしなものだと、工場の人間はみな考えていた。自分たちのしていることが公になるなど考えたこともなかったし、そうなるはずもないと思い込んでいた。
 ただひとりを除いては。
 ある日、新入りである青年が工場に現れなくなった。所謂無断欠勤である。それが数日続いたある日、彼を探しにシカゴの街をうろついていた彼は、工場に戻って衝撃を受けた。
 工場に、警察が来ていた。
 その目的は明らかで、酒の密造を摘発するためである。男は工場に近付かずにすぐさま家へと戻ると、荷造りをして家を飛び出した。たとえ彼がその場に居なくても、他の工場員の証言で、すぐにバレることだろうと考えたからである。
 しかし、彼に不幸が降りかかる。
 逃げ出した彼は、路地裏を走っていて、見たことのない人物にぶつかる。
 男は知らない。
 その相手が、マフィアの関係者であり、一部では有名な殺人鬼であることを。
「オイオイオイオイ、アンタ変にあせってんなぁ。逃げてんのか? 何でだ? 命の危機か何かか?」
「う、うるさい、とっととどけ!」
「それはないんじゃねぇのか? そういやアンタ、逃げてるってのに緩んだ顔してんなぁ。自分は死ぬわけもないとか、そんな風に思ってんのか? 思ってんだろ? ムカつくねぇ、アンタ。よし、俺の怒りとぶつかった肩の分だ」
 彼の人生は、そこで終わる。
 最後に彼が考えたことは、「そっか、密告したのって、あの新入りかぁ」などという、少し考えればすぐに分かるようなことであった。






 しかし、物語はそこでは終わらない。
 男は死んだ。男の肉体は、その翌日に殴殺死体として発見される。
 ところが、彼の意識は生きていた。
 それは何も、幽霊などという非科学的な話ではない。彼という個体は死んでも、彼という個体をネットワークの一つに組み込んでいた巨大な意識は、滅んでいなかったのだ。
 その意識の名を、『シャム』という。
 巨大な意識は、自分の個体の一つが関わりを持った青年に興味を持つ。そして、別の個体を使って、彼との接触を試みる。
 『シャム』は、その男に、すでに心惹かれていた。
 そしてそれが、全ての始まりとなる。







 艶やかな金髪を持つ、情緒不安定な破壊魔の名は、『グラハム・スペクター』といった――。


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