00部屋その壱
□名を知らぬ
1ページ/1ページ
この感情の名前も正体も知らない。今までに体験したことがないものなのだ。
それは、王進様に対する想いに少し似ている。
ただ、それよりももっと緩やかで柔らかくて、同時に苦しいものだ。胸の奥で燻って、呼吸を邪魔しようと表面に表れてくる。
この感情を何と呼ぶのだろうか。
それを私は、知らない。
「どうしましたか、林冲殿」
「いえ……」
少しぼうとしていた。ハッとして顔を上げた私の顔を、いつの間にとなりに来ていたのか、宋江殿が気遣わしげに覗き込んでいる。
「何でもありません」
「考え事でも?」
「……そういうところです」
貴方のことを考えていました、とは言えなかった。失礼のように思えたからだ。
この男が一体何者なのかを、私はよく知らない。
ただ、義賊の首領にあたる人間なのだということは、会話の端々や他の人間の態度から分かっていた。しかし、それにしては、なんとも判断し難い。
煙のようなのだ。
飄々としていて、掴みどころがない。
「宋江殿は、何か私に用でも?」
「いえ、特にそういうわけではありませんよ」
「はあ……」
「ただ、することもないので、一緒にお茶でもどうかと思っただけです」
言いながら立ち上がった彼は、慣れた手つきで茶の準備に取り掛かる。
やはり義賊の首領らしくない彼の動作を、ぼんやりと、私は目で追っていた。
「林冲殿は」
こちらに背を向けたままで、宋江殿が言う。
「私のことが、気になりますか」
図星を刺され、冷や汗が流れ出しそうな気分になる。
「……どういう意味でしょうか」
「いえ、特にどうというわけでもありませんよ。ただ、貴方が時々私のことを見ているなと、思っただけで」
気付かれていた。
思えば迂闊だった。たとえ外見上はおっとりして見えていても、ここに集う者たちを束ねる立場にいるのだ。怪力であることすら忘れそうになる程だが、視線くらい気付かないはずがない。
私らしくもない。
「……私は、」
続ける言葉は思いつかなかった。
なんとも言えない。何しろ、どうしてこの男のことが気になるのか、自分でも分からないのだ。
ただ、もっと知りたいと、そう思う。
言葉を探して困っていると、出来上がった茶を手にした宋江殿が、いつもどおりの笑顔でこちらへと戻ってきた。湯呑みを机に置いた彼は、また元のように私と向き合って座り、じっとこちらを見る。
見透かされているかのような、そんな気分になった。
「林冲殿は、私のことが好きですか?」
「……はい?」
にこにことした顔で唐突に訊かれ、どういう意味かと思わず訊き返す。
すると、ずずっと茶を飲んでから、「いえ」と彼は口を開いた。
「好きでないのなら構いません。ただ、訊いてみただけです」
「好き、とは……」
どういう意味なのだろうか。
嫌いかと問われれば、違うと答えるだろう。確かに正体のわからない男だが、不思議と警戒心を抱かせない。どころか、一緒にいると安堵してしまう程だ。
だが、果たしてそれを好きだと言えるのだろうか。
王進様、そして王母様のことは、胸を張って好きだと言える。当たり前だ。二人には返しきれないほどの恩があるし、何より二人ともとても素晴らしい方たちなのだから。
なのに、宋江殿のことは、分からない。
ただ、変にわだかまって巧く表現できないものがあることは、確かだ。
「そう真剣に考えることはありませんよ」
眉を寄せる私を見て、彼はフォローするかのような言葉を口にした。
「……正直なことを言ってしまえば、私の方が貴方を気にしているだけなのです」
「はあ」
「質問を変えましょう」
威圧感を与えない、それなのに存在感のある目。
こちらの目を一度捉えられては、逸らすことはできなかった。
「私のことが、嫌いですか」
息が止まる。
この男は義賊だ。嫌いだ、と答えておかなければ、後に面倒なことになるかもしれない。ずるずると仲間にされては堪らない。
頭ではそう分かっていても、嫌いだと口にはできなかった。
何故だか分からない。けれど、この男を否定してしまうことを、自分は酷く恐れている。嫌いだ、その人ことを口にしてしまうことが、酷く恐ろしいことのように思えた。
「……嫌いでは、ありません」
正直にそう言えば、彼は満足げな表情をする。
「私は、林冲殿、貴方に私の仲間になってほしいと思っています」
「それとこれとは違います。私は仲間になどなりません」
「ええ、今の貴方はそう思っているでしょう。私も無理強いする気はありません。……でも、貴方に仲間になってほしいと、私は思っているのです」
ゆったりとしているのに、間に言葉を挟むことを許さない口調。
知らず知らずの間に圧倒されている自分に気付く。
「貴方が強いから。それだけではありません」
「……では、何故」
やっとのことでそれだけを絞り出すと、一呼吸おいて、宋江殿は言った。
「私が貴方のことをもっと知りたいと思っているからです」
どくん。心臓が一際大きく音を立てた。
口の中がへばりついているのが分かる。
「宋江、殿……?」
「すみません、驚かせてしまいましたか? けれど、私は本当にそう思っていますよ」
驚いた、どころの話ではなかった。
私と同じことを相手が思っているだなんて、一体誰が考えようか。
「貴方は私を好きではないでしょうけれど、私はどうやら、貴方のことが好きなようです」
「……好き、ですか」
「ええ。もっと貴方のことを知りたい。貴方のことを考えるだけで、落ち着かない気分になる……これを恋と呼ぶのでしょう?」
返す言葉がなかった。
完全に動かなくなってしまっている私を見て、困ったように宋江殿は首を傾げる。しかし、今度は子供のような微笑みを見せると、ずいっと顔を近付けて言った。
「覚悟していてくださいね、林冲殿」
吐息を感じられるほどの距離で、彼は私に告げる。
「私は結構、我儘なのですよ」
その言葉は、どこか遠くで言われているかのように聴こえた。ぐらりぐらりと頭が揺れて、言葉の意味を正常には受け入れてくれない。
目は、すぐ近くの宋江殿の顔に、釘付けになっている。
「欲しいものは、絶対に手に入れる主義ですから」
それだけはっきりと言うと、またすぐに私から離れた宋江殿は、「では」と自分が飲んでいた茶を手に机から離れた。そして、そのまま歩き出すと、すぐに私の視界から消えていく。
なのに、彼が見えなくなってしまってからも、私はそこから動けなかった。
頭が麻痺してしまったのだろうか。指一本動かせない
代わりに、一つの疑問だけが、頭の中に渦巻いていた。
これは、恋、なのだろうか?
誰かにそう訊いてみたいと思ったが、相手になりそうな人物は、王進様でさえもいなかった。
――あとがき
初の宋林でした。
本当はもう、そのまま口付けくらいはという勢いで書き出したのですが、林冲を悩ませるのが楽しくて楽しくて(←)結局このようなものになってしまいました。
宋江様のマイペースは最強です。
悩みながらも彼に惹かれていく林冲、という構図はとっても素晴らしいと思います。宋江様のカリスマ性はすごいです。
とっくに宋江様に落とされてる林冲、すでに掌の上、ですけれど(笑)
書いていてとても楽しかったです。ずっと書きたかったのですが、思い切りが足りなくて……。
ぱとさま、きっかけを与えてくださってありがとうございました。
とても楽しく書かせていただきました。
キリ番を報告してくださる方が少ないサイトなので、リクエストを頂けるととてもうれしく、また、励みになります。
これからもどうぞよろしくお願いします。
67000HIT、本当にありがとうございました!