00部屋その四
□ライニル過去ログ
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シチューを運んできた兄さんが、自分の皿をテーブルの上に置いて席に座る。俺はそれを待って、子供のころからの習慣である神への祈りを、兄さんとともに捧げる。
目を閉じた、静かな時間。
それが終わると、俺たちはすぐにシチューへとかぶりつく。本当はすぐに食べても良いのだけれど、昔からの習慣だから、なんとなく、やめる気にはならない。
食べざかりの俺たちは、言葉少なに食事に専念する。サラとスプーンがぶつかる音、シチューをすする音だけが部屋の中に響く。
ふいに兄さんが口を開いた。
「ライル、お前、これからはどうするんだ?」
「これから……って?」
「カレッジだよ、カレッジ。行くのか?」
鬱陶しげに髪をくくった兄さんは、俺と全く同じ顔をしているというのに、何処となく大人びて見える。俺はと言うと、進学のことなんて全然考えたことはなくて、どころか、今更あと一年だということに気が付いた。
「兄さんは?」
じゃがいもを呑みこんだ俺は、反対に尋ね返す。
「俺は就職するよ。社会保障費だけじゃ、授業料がちょっとキツいからな」
「なら俺が働けば良いだろ。兄さんの方が頭良いんだし」
「お前が今すぐに社会に出て働けるとは、到底思えないけどな」
ちらり、とこちらを横目で見た兄さんが、意地悪く笑う。俺は不機嫌になって、「でも、」と言葉を続けた。
「何も兄さんが今働く必要はないだろ。大体、大学を出てないヤツを雇う会社があるのかよ」
「何も会社に勤めるとは言ってないだろ」
即座に切り返された言葉。
それの意味が理解できなかった俺は、眉を寄せて兄さんを見た。
「どういう意味だよ」
「他にもいろいろ仕事はあるだろ?」
他の仕事。
それが分からないんだ、と言おうとしたところで、兄さんが、真剣な顔をして告げた。
「俺は、此処を出て行こうと思う」
「……兄さん?」
嘘だろ?
時が止まったかのように体が動かなくなって、思考が停止する。兄さんが言った言葉の意味が分からない。
一体兄さんは、この人は、何を言ってるんだよ?
「……出て行くって?」
「アイルランドは、確かに良いところだ。けど、あまりに狭すぎる。他の国へ行くのにも手間がかかるし、俺は、他の国で働こうと思う」
淡々と兄さんは言って、一口、シチューを飲む。
「それに、いつまでも二人で一緒に居ても、互いの為にはならないだろ。一緒に居る限り、俺はお前を甘やかしてしまう。駄目にしてしまう。それじゃ駄目なんだ。……お前だけじゃない、俺の為にも、俺は此処を出て行く」
「……駄目になんて、ならないさ」
「なるんだよ。俺はそれが怖い。お前意外に注ぐ相手のいない家族愛が、過剰になりすぎてる気がするんだ」
兄さんが言っていることばの意味ぐらい、痛いぐらいに分かった。
俺も兄さんも、互いに依存し過ぎている。
気付いていたからこそ、俺は外に友人をたくさん作った。そうすることで兄さんから離れられる気がしたし、依存しているのは兄さんだけだと自分を騙そうとしていた。
でも、駄目なんだ。
家にいて、こうして二人になると、この家に繋ぎとめられているような気がする。それは兄さんのせいであり、俺自身のせいだ。
あのテロの日以来、呪縛のように、この家から離れられない。
離れたいと思う俺は言う。
「……じゃあ俺が出て行けば良いだろ。何も兄さんが出ていく必要はないじゃないか」
それに対する返事は、謝罪だった。
「……ごめんな、ライル」
「ごめんなって、何だよ」
「……俺は、何処で働くのか、もう決まってる」
「嘘、」
「本当だ。何処で働くのかは言えないけど、でも、」
何処で働くのか?
ふと、脳内にひとつ、文章が閃いた。
『兄さんは、死ぬ』
それは直感ですらないのに、何故か俺は確信を持った。
ここを出て行った兄さんには、もう会えなくなる。そして兄さんは、仕事中に、死ぬ。
「……兄さん」
「お前への仕送りは、口座へと入金する。AEU内なら、何処からでも送金できるからな」
「兄さん」
乾いた唇からは、彼を呼ぶことしか出来ない。感情が言葉にならない。形を造ることが出来ない。
「心配すんなって。お前なら一人でも大丈夫だから」
俺の顔に気付かずに続ける兄さんに、手を伸ばして、ゆっくりと身を乗り出した。
「どうした?」と訊いてくる兄さんに、自分でも怖いほどの無表情で、顔を近づける。
「ライル、」
キスをした。
シチューの味がする。色気も何もない、ただ、唇を重ねるためだけのキスだ。
だけど、それを離さずに、兄さんの顔を引き寄せる。キスを続け、より深く、重いものへと変えていく。
これが最後のキスになる。
これは確信だ。
あぁ、そうか、俺はこんなにも、兄さんのことが好きだったんだ。