短編小説

□春を送る
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 うだるような熱帯夜だった。

 部屋のクーラーは夕方にぷすんと間抜けな音を立てたきり動かなくなった。明日業者が具合を見に来ることになったけれど、一晩も越せそうにない。

 寝苦しく、何度目かの寝返りをうって、とうとう部屋を出ることにした。

(喉渇いた)

 向かいのドアの下から明かりが漏れている。この中はクーラーが効いて涼しいのだろう。とはいえ、遅くまで勉強している受験生の部屋に、布団を運んでのんきに寝るのは気が引ける。なるべく足音を立てないように静かに階段を下りた。

 1階は電気が消えていた。ダイニングの豆電球を点け、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出しガラスのコップに注ぐ。行儀悪く飲みながら歩いて、リビングのソファーに腰かけた。私が冷房を消してから1時間ほど経っていて、ぬるい温度になっている。お母さんは朝が早いのでとっくに眠っている。

 テレビをつけると吹き替えなしの洋画をやっていた。音量を小さくして英語と字幕を追った。




 テレビの音がふつと消えたのが、浅い眠りの中でわかった。

「梓」

 今何時なのか、映画がまだ途中なのか終わったのかも知らない。夢と現実の狭間が心地よく、まぶたが重くて開けられない。

 微かに服がこすれる音がして、ソファーにもたれる肩の隣の部分がへこむ。何かが電気を遮り、まぶたの向こうがさらに暗くなる。

 時が止まったようだった。

 人の気配が遠ざかる。リビングを出て階段を上る足音を耳にしながら、そろそろと両手で顔を覆う。

 夢だと思いたかった。
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