dream■mid_Croco_trip
□one rainy day
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「名無しさんの奴、まさか…」
クロコダイルは玄関先を通りかかり、目にしたものに足を止めた。
そこにはペールブルーで柄が細いシルバーの、シンプルだが女物とわかる傘が置いてある。
「…確かこれだけだったよな。」
記憶に依れば何度となく目にしていた傘立てには、この一本だけがぽつねんと存在していた筈だ。
「雨季だろうが、全く…」
呆れて紫煙と吐息を吐く。
慥か、ツユと云ったか。
此方の世界では、この時期に傘を持って出ないなど有り得ないという常識は、クロコダイルの中に既にインプットされていた。
「………。」
名無しさんが明け方まで企画書作成に専念していたことは知っていた。
朝方やたらとテンション高く、いい出来のものが完成したと騒いでいたのを思い出す。
勢い良く飛び出していったが、エレベーターを降りた後に傘を持ってないことに気づき、「まぁ走ればいっか。」などとほざいたに違いない。
恥や外聞の問題であれば知ったことではない。
だがクロコダイルの勘が正しければ、名無しさんは風邪を引きかけていた。
「てめェ、ちと顔が紅ェぞ。」
そう言ったとき、「や、朝っぱらからクロコダイルが格好良いから!」などと誤魔化していたが、悟られないうちにサッサと出勤したといったところだろう。
「…チッ、あの馬鹿が。」
クロコダイルは眉間に皺を寄せたものの、黒いコートを羽織って傘を手に取った。
「うわーまだ降ってる。
…当たり前だけど。」
会社を出た名無しさんは、自嘲の笑みを浮かべ外に手を翳した。
昨夜、ほぼ徹夜で書いた会心の企画書は上司の反応も良く、そのテンションで乗り切っていたが午後から身体のだるさを否めなくなっていた。
徹夜でテンションもおかしく、熱もあった為だろう、今朝は梅雨の時期なのに傘を忘れて出た。
「まぁ走ればいっか。」
そう呟いて有限実行した。
それに、クロコダイルに不調を勘付かれたのを誤魔化した手前、戻れなかったのだ。
今日はあちらの世界に戻り大事な商談があると言っていたので、あまり心配をかけて別れたくはなかった。
駅までとコンビニへの距離は然程変わらない。
―またひとっ走りするか。
よし、と小さく気合を入れてやや下を向き、バシャリと一歩を踏み出した、そのとき。
「うあっ!?
ご、ごめんなさ… !?」
前方にドシンと衝撃が走り、明らかに人とぶつかった感覚のそれに謝罪を述べながら視線を上げる。
驚愕することに、そこには見慣れた黒い大男の姿があった。
「クロコダイル?!
何やってんのこんなとこで…?!」
かろうじてブルーである為酷い違和感は無いが、身にそぐわぬ繊細な傘をさして不機嫌に葉巻を咥えた姿はミスマッチそのものだ。
「あ?
そりゃこっちのセリフだろうが。」
分厚い胸板に貼り付くように固まっている名無しさんを見下ろし、舌打ちをする。
「おい、何してるサッサと帰るぞ。」
そのまま肩を抱かれるようにして強引に歩まされたが、まだ状況把握ができない。
「ね、ねぇどういうこと?
まさかとは思うけど、お迎えに来てくれたの…?」
そんなことは今まで一度も無かったし、いかにも似合わぬ行動だ。
「…てめェ、身体が熱ィぞ。」
問いは無視され、咎めるような低音が降ってきた。
「………や、夜分遅くにクロコダイルが格好良いから…」
「同じ手は喰わねェ。
黙ってろ。」
「………ハイ。」
電車に乗り、降りればひとつの傘に身を寄せ無言で帰路につく。
その間ずっと逞しい腕に抱えられるように収められていた。
労りの言葉こそひとつも無いのに、しとしとと振るこの雨のように染み入る想いが滲む。
促されて準備されていた風呂へ入り、二重に火照った身体をできるだけぐったりしないようにソファにもたせかけた。
「クロコダイル、私は大丈夫だからあっち戻っていいよ。
大事な商談あるんでしょ?
私ならどんなことがあっても行くよ!クロコダイルだって同じ人種でしょ?」
熱のせいもあるのか、やたらと煌ついた瞳で強く見据えてくる。
具合が悪いのは本当だろうが、強がりではなく本気で言っているのがわかる。
こんなときくらい―ましてや女だ、弱々しく縋るのが普通じゃねェのか?
酔狂な女だ。
―だが、そんな処にこそ惚れてしまった自分はもっと酔狂だ。
「余計なことを考えるな、てめェ熱があンだろうが、いいから早くベッドに行け。」
「熱なんて、ベッドでいっぱい汗かいて寝れば下がるし!」
口を尖らせて子どもの反抗のような表情をする名無しさんに、クロコダイルは片眉を上げたがややあってニヤリと片頬を吊らせた。
「おいおい、随分大胆なお誘いじゃねェか。
こりゃァ商談をふいにしてまで残った甲斐があったぜ。」
「………は?」
ポカンと口を半開きにしてまわらぬ頭で反芻する。
ベッドで…
汗…
「…っ!!
ちっ、違うし!誰がそんな意味で…!!」
大いに慌てている名無しさんを、クロコダイルは愉しそうに見下ろした。
「クハハハ、冗談だ。サッサと寝るぞ。」
風邪薬を飲まされた後、すぐに寝室へ連れ去られ、ふかふかとした羽布団に潜り込まされる。
だが実際はこの身体の大きな男に包まれているといったほうが相応しい。
「クロコダイル、
…ありがとね。」
返事は無かった。
だがそれに有り余るほどの金の瞳に見守られながら、名無しさんはいつの間にか心地よいまどろみに落ちていった。
朝方、いつもより早く目を覚ますと、滅多に見ることの無い端正な男らしい、目を閉じたクロコダイルの顔を間近にしていた。
「…これじゃ熱、下がったかどうかわかんないじゃん。」
煩い鼓動と熱い耳朶に吐息をつきながら、名無しさんはそっと独りごちた。
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