dream■short_T
□糖度零の甘言に乗り
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終始このようなペースで、三ヶ月が過ぎた。
はじめのうちは仮初という意識でいた二人も、いつしか心を通わせ、その頃には本当の夫婦のように離れがたく―
「…ならなかった!
見事にならなかった!
嬉しい、自由の身だぁー!!」
名無しさんはカレンダーでカウントしていた最後の一日に斜線を引いた途端、諸手を上げて咆哮した。
異常に打たれ強く育った名無しさんも限界がきていたのか、若干げっそりとした顔を久しぶりに輝かせる。
暫し開放感に浸っていたが、黙って紫煙を燻らせたままテンションを上げてこないクロコダイルに、ハッともしやとの想いがよぎる。
「…もしかして、クロコダイルはちょっと、ほんのちょっとだけ寂しいとか…?」
「安心しろ、微塵も無ェ。
俺も漸く肩の荷が降りたぜ。
…さて、どういった手順でことを運ぶのが一番スムーズか考えるとするか。」
眉根すら寄せず言い放つクロコダイル。
「わーお、事務的っ!」
…そういえば、クロコダイルのテンションが低いのはいつものことであった。
望んでいた訳でもないが、最後の最後まで性懲りも無く甘い考えが過った自分を嘲笑する。
そこからの流れはいっそ清々しいほど効率的で、双方の異議無く判が押された離婚届は、名無しさんの父親を証人として無事受理された。
「完全と思っていた娘にも至らぬ部分があったようでして…、
親として申し訳なく思いますが、代わりの好条件なんぞ提示していただき…、
いやぁ、円満離婚で何よりでしたなぁ!」
アラバスタ一の腹黒商人は、恰幅の良い腹を揺らしながらガッハッハッと豪快に笑った。
一報を受けた際には流石に慌てたものの、結果的に得をすることになった父親は、娘の離婚についてはダメージを受けたふりすらしなかった。
理由も禄に聞かず、鼻歌交じりに役所へ向かったという。
数日が経過した今、心配で迎えに来たなどとの白々しい宣いに、当然の如く沸き上がる殺意を抑えて引き攣り笑顔を浮かべる名無しさん。
それを横目で眺め、ニヤリと口角を上げる元・夫も大層腹立たしい。
「…さて、名無しさん。
クロコダイル様ほどではないかもしれんが、お前の為に次の男を見繕ってある。
帰って早速見合いだぞ、まずはお世話になった御挨拶をしなさい。」
親らしい口調で、親とも思えぬ台詞を口にする父親。
だがこれには名無しさんも、仮面の笑顔も消えて顔を凍りつかせた。
そのとき同時に、クロコダイルがスッと笑みを消したことに誰も気が付かなかった。
「………お父様、
次の殿方とは…?」
震えそうになる声をかろうじて整え、静かに問う名無しさん。
「ほう、早速興味を持つとはいい心がけじゃないか!
新興だが財力のある男でな、縁組となれば此方も新たな商売の開拓ができそうだ。
お前の幸せの為にも一石二鳥だろう?」
―私の幸せなんか、ひとかけらだって考えてない癖に…!
唇を噛み締めながら、爪痕が残るほどに拳を握りしめる。
その様子にも気づかず上機嫌な父親に、再度クロコダイルへの別れの挨拶を促された、そのとき。
「俺の前でそんな話をするたァ、幾ら何でも礼を欠いてるんじゃねェか?」
父娘はその声に、同時に顔を上げて視線を向ける。
表情こそ淡々としているが、奥底に見る者の肝を冷やすような何かが潜んでいた。
「…っ!!
こ、これは誠に、大変失礼致しました…!
貴方様を蔑ろにしている訳では決して…!!」
厚顔な父親も流石に焦燥の色を浮かべ、這い蹲るような勢いで弁明を始める。
「…まァいい。
とりあえずまだ禄に荷物も纏めてねェんだ、今日のところは娘を置いて帰れ。」
先程見せた危険な閃きはやや緩和されたように見えるものの、その有無を言わさぬ威圧感に、ペコペコと脂汗を滲ませながら頭を下げて引き払って行った。
「…同情なんて、らしくないんじゃないデスカー?」
父親が去った後、暫し呆然としていた名無しさんは、しかしややすると起こった出来事を意に介してもいないかのように脱力した声を出した。
「あ?同情だと?
そんなくだらねェことをこの俺がすると思うか?」
此方も表情の無い声で、眉一つ動かさず葉巻をふかしている。
「…あそー。
じゃあ何、やっぱりまだ縁組しといたほうが得することでも思い出した?」
言っていたような礼儀などを気にかけるような男でないことは、この三ヶ月で重々理解している。
そしてそれ以上に、自分への執着故では無いことも分かりきったことであった。
「イヤ、てめェの親父との直接契約はいずれ切る。
関係無ェな。」
変わらず端的に答えるクロコダイルだが、名無しさんはもう理由を問うこともなく虚無的に笑った。
「まぁだけど、先延ばしにしたって一時凌ぎにしかならないから、もういいんだ。
…助けてくれて、ありがとね。」
虚勢すら張れず弱々しい、だがどこか情が篭った言葉。
クロコダイルが一瞬だけ僅かに息を詰めたように感じたが、名無しさんはその場を立ち去ろうと踵を返した。
「…待て、名無しさん。」
だがそのとき強い力で手首を掴まれ、振り返ると強い視線で見下ろしてくるクロコダイル。
「俺と再婚しろ。」
続けて発された言葉があまりにも理解不能で、却って冷静に切り返す。
「………、何言ってんの?
再婚話はもう決まって…」
「そうなったら俺ァ、間違い無くその野郎を殺しに行く。
どうだ、やめとけよ。
新婚すぐに未亡人決定だ、幸せにゃなれねェぜ?」
まるで取引上の駆け引きのような物腰とその内容のギャップに困惑するが、長年こびり付いていた呪縛が頭を擡げる。
―こんな馬鹿げた人生、幸せになれるなんて期待は一切していない。
だけど…
「甘ったりィことを言うつもりは無ェ。
だが、他の男の話を聞いた時、てめェを渡したくねェと気づいたことは事実だ。
決められた次の婚約者よりゃマシという程度でも構わねェさ。」
「……!!」
これまで、驕慢で表面的なだけの社交界にうんざりし、愛情や信頼なんか糞喰らえだと思って生きてきた。
そんな諦観を持っている名無しさんにとって、過剰な感情を排斥したその言葉は却って真実味を帯びて心に突き刺さった。
「…あの親父から逃げられるとか、仮面被らなくていいから楽とか、性格最悪だけど見た目は格好良いからまぁいいかなとか、
…そういう理由でもいい訳?」
「クハハハ、充分だ。」
クロコダイルは事実上肯定の意と汲み取ると、掌を名無しさんの手首から後頭部へ移して艶笑した。
「…今はな。
いずれ骨抜きにしてやる。」
「………!!
はぁっ?!
ふざけんな、誰が…!!」
この俺がてめェに一方的に固執するなんざ癪だからな、と口角を吊り上げる元・兼近い将来の夫。
名無しさんはその照れ隠しに、何のダメージも与えられそうもない分厚い胸板に拳を打ち付けた。
プロポーズとその返答にはあまりにも色味が無い終幕。
だが、それを求めないが故にリアリティに敏感な者同士、稀少な出逢いを果たしているのであった。
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