暗部のモブ

□19
1ページ/1ページ


 いつもなら「ただいま」と、入ってくるその声が待てど暮らせど聞こえない。気配は確かに部屋の中─⋯今は浴室だろう、荒く流れる湯の音が衣服に当たりバラバラと音を立てていた。

「⋯」

 ガラス戸に写る影を見留めてから、広げていた忍具を片付け寝床を整える。初めての事じゃない。今回の任務がそうさせているだけ。

「⋯エイさん、入るよ?」

 頭から止めどなく滴り落ちる水滴が髪の束で彼女の憂いを覆い隠す。面を外し装備を外し、跳ね返る細粒が当たる度、その心が悲痛を訴えかけて来るようで、黒い装束姿にしたエイさんをそのまま大きめのタオルでくるみ浴室から抱え出た。

「寒くない?」

 濡れ鼠姿の彼女をベッド脇へと下ろせば、変わらず伏せられた顔で大丈夫と、体を起こし着替えを始めたエイさんの背を、ただただ視線で追い見つめ待つ。─⋯もどかしい。何度思ったことだろう。オレがこうする事はただの自己満足でしかなく、現に彼女はこれまでも、一人で同じような日々を幾度となく乗り越え、これが自己を保つ最善だと理解し、こうしてやり過ごしている。

「⋯」

 目の前を横切るエイさんの後に続き、同じ布団に潜り込む。拒絶も受容もされないそれは、あの日踏み入るでも、聞き宥めるでもなく寄り添ってくれたエイさんに救われたオレに出来る精一杯で、同じようにと願えども口に出来ないこのやりとりは、せめて傍にいる事を伝えたいその一心。身を縮める背に腕を回して「おかえり」と告げれば、「ただいま。ごめんね」と、普段からは想像の付かない声が身を震わせるには十分だった。

「─⋯おやすみ。エイさん」

 暗部に身を置いて長く、未熟な者も容赦なく戦前に駆り出される時代を先に生きてきた人だ。同期はもうほとんどいなくなってしまったと、以前溢した哀愁も、仲間を大切に思うこの人にとって最も過酷と言えるだろう、里抜けした者への処断は、どうしたってこの部隊には付き纏う。

「⋯⋯」

 辞めてしまえ。なんて言葉はもう喉に張り付いて剥がれない。自分が抜ければ誰かが同じように苦しむ事を、見もしない相手に同調して苦しむこの人は優し過ぎる⋯と、そこに惹かれた自分が思うのもなんと身勝手な事だろう。寄せた肩口にまとまる濡れた髪の冷ややかさが堪らなく愛しいと、この思いを知れば軽蔑されてしまうだろうか。それでもオレはあなたが隠そうと、押し込めようとするその感情をこうして傍で何度でも、共に受け止め過ごすと決めた。

***

次の章へ
前の章へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ