A3!

丞とその彼女
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オルレア







『何があったか知らないけれど、練習に当たるのは止めなよ』
幼馴染の一言で、自分が苛立ちを感じているのを、知った。


定例稽古を終え、部屋に戻る。
幼馴染と同室の204号室は向かって左を彼、右を自分が使用している。
白を基調に柔らかな雰囲気でまとめられた幼馴染――――月岡紬のスペースは“お庭番長”の異名の通り、植物がたくさん配置され、季節ごとに入れ替えなども小まめに行われているようだった。
一方、自分のスペースは黒や焦げ茶などの彩度の低い色でまとめている。
必要最低限の小物と、趣味のサッカー用品以外は特別持ち込んではいない。
配色諸々を意識をしたわけではなかったが、結果として“正反対”となったこの部屋が、今はただ苛立ちを更に助長させる要因の一つとなってしまっていた。
この苛立ちの根源が分からないからである。


「………」


一旦気持ちを落ち着かせるべく、ソファへと腰かける。気も遣わず放り投げた大柄に驚き、ソファはいつもよりも大きな悲鳴をあげた。
手を組み、その上に額を乗せる。練習後の昂揚する体はまだ熱く、額からはジクジクと鼓動が伝わってくる。
しかし、苛立ちも混じったそれらの熱は、いつもの練習後の心地よい熱などでは決してなく、モヤモヤを丸めた溜息が漏れるばかりだ。
こんな時は日課のランニングでも―――となるのが通常なのだが、今日ばかりはそんな気にもなれない。
モヤモヤとした気持ちを抱えて幾日経つが、その間に何度走り込みをしようとも、その霧が晴れる事はなかったからだ。
仕方なく、霧の中へと足を踏み入れていく。


「(…何に苛立ってるっていうんだ)」


一歩踏み入れた霧の中。それらはすぐに自分を包み、内へと入り込んでは胸から、喉、頭、肌へ―――不快なざわめきを掻き立て、体中へ伝染させていく。
その不快感は髪の先でさえ反応しそうであった。しかし、じっと堪え、自ら心の内を覗き込んでいく。
何に、苛立っているのか。なぜ、苛立っているのか。
欲しいのはその答えだった。
しかし、どれだけ内側を漁ろうとも答えが見つからない。

不快感だけが自分を包み込み、精神を苛む内にとうとうそれにも慣れてしまったのだろうか、思考力が落ちているのに気付いた。
過去を思い出すのが酷く億劫で、ただ不快感に抱かれながら瞳を閉じる。これではだめだ、と思った。
一度息抜きをしようとソファの背もたれに大きく体を傾けると―――ふと横に、紬の鉢植えがあるのに気が付いた。
それぞれのスペースの境界に置かれたその植物は、若草色の葉を四方に広げながら蔦を伸ばしている。


「(そういえば―――エリカも植物が好きだったか)」


かち。何かが音を立てて丞の中で形を作った。
その刺激に身体は閃きを持って跳ね上がり、勢いそのまま、身を起こし紬の植物を注視する。
そうだ、エリカだ。と。丞はモヤモヤの根源の影を捕まえた。

春の初め、恋人とデートの約束をしたのだが、劇団の呼び出しなどで十分な時間を過ごす事が出来なかった。
その埋め合わせとして寮での約束を作ったのだが、それもまた、結果的に反故にしてしまったのである。
久々に出したバイクの心地よさに負け、彼女との約束を忘れ―――そのまま出かけてしまった自分の落ち度だった。


「(…………)」


出先から寮へ戻り、玄関を入った所で鉢合わせた時の気まずさを思い出し、丞は苦々しい表情で眉間に皺を作る。
後から気付いた事だったが、二輪の荷物入れに放り込んでいた携帯電話には、何度も彼女からの着信履歴やLIMEメッセージなどが入っていた。
連絡のつかない自分を心配するメッセージに、悪いことをしたと胸が痛んだ。
同時に、埋め合わせだというのに、その約束すら破ってしまったこと。これに関してはぐうの音も出なかった。

日も暮れたその日の玄関ホール、明かりに照らされたエリカの顔が、その瞳が、ちりちりと震えていたのを忘れられない。
バイクの後ろに乗せた監督が玄関へと戻ってくるのにつられて、集まった劇団員が作るギャラリー。
その場で自分の罪を明かす事は情けなく思ったが、自分の体面よりも謝罪だと思い口開いた。しかし、それは、彼女の言葉で遮られた。
“初めからあなたと約束なんてしていない”という意味を込めたそれを、まるで“本当の言葉”のように紡ぎ、演じる彼女の優れた嘘に、芝居に、その時の自分はただ立ちつくしてしまった。
何事も無かったように脇をすり抜け、舞台袖―――もとい、寮から出て行くその背を追い始めるのに、時間を要するほどに。

追いかけ、ようやく捕まえたエリカは泣いていた。
その涙に驚いたが、やっと告げられると思った“謝罪の言葉”は再び、有無を言わさず拒否されたのだった―――おそらく、これが“根源”なのだろうと丞は結論へとたどり着いた。
とうとう、モヤモヤの正体を理解する。


「(…謝れなかった、許されなかった事が、問題を終わらせてくれないということか)」


それは丞の中で今まで出会った事のない感覚であった。丞自身、己の言葉の足りなさを自覚はしている。
しかし、これまでそれで何度人と意見が食い違ったり、諍いが起きたとしても、拙いながらも言葉を交わす事で解決してきたはずだった。
幼馴染との諍いも、解決までに時間はかかったけれど、きちんとぶつかる事で和解する事が出来たのと同じように。
今回の事は完全に自分に非がある事を、丞は重々承知している。
それなのに――――彼女は謝罪を拒絶し言ったのだ『怒ってないから、謝らないで』と。
『もっと好きになってもらうように、頑張るね』と。
まるで非が彼女自身にあるとでも、言うように。

すると再び、腹の底から湧き上がってくる澱んだ気配に気が付く。
ごぽごぽ音を立て煮詰まるそれが胸へ、視界へ、新たなモヤモヤを生み出していくのだ。吐き出せない事を分かりつつも、その不快感に大きくため息をつく。
この感覚には記憶があった。
幼馴染と――――紬に対して感じていた事と似ているのだ。
何かトラブルが発生した時、自分が関わっていた場合に、自分を責め己が中で『自己解決』してしまう癖。
たとえ自分に非がなくとも相手に何も求めず、伝えず――――内で消化してしまうその性質に、やりきれなさを感じていた。
言ってくれれば理解できる。全ては理解できなくとも、凝り固まった自分の認識を変える事だってできる。
しかし、それを拒絶されてしまえば何ひとつ理解も出来ず―――――ただ、一方的に“赦される”だけの状態となるのだ。それは対等とは言えない。

玄関ホールで見た彼女の瞳は震えていた。
今でも鮮明に思い出せる程、儚く揺れた双玉に映し出されていたものが歓喜だと錯覚するほど愚かではない。
だからこそ、自分は一層自分の非を深く自覚したのだから。約束を破った事、心配をかけた事。
その二つに、彼女が何を背負う要素が含まれているのか、どれだけ考えを巡らせても分からない。
――――それに、


「(…言えない間柄ってなんだよ)」


今にも零れそうなくらいに瞳に詰め込んでいたのに、それをぶつけられない自分という存在は、彼女にとって何であったのだろう。
追って捕まえた時には溢れさせていたその気持ちをぶつけてくれたのなら、どれほどよかったか―――――一人で抱え込まれ、自己解決されて、相互理解も出来ぬまま事が進んでいくのは納得ができない。
直接、ぶつけてみるしかないのか。重い気持ちで一つの結論を導き出し、丞はもう一度だけ、大きなため息を吐いた。
結果が見えない行動は気が重くなるばかりだが、とりあえず一つ前に進めた気がする。
…いずれにせよ、こうした機嫌の悪さを稽古にぶつける姿勢は褒められたものではない。紬の指摘に改めて感謝をした。

「丞」
「……紬」

見計らったようなタイミングで部屋のドアが開く。入ってきた同室者。
稽古中の指摘の件もあり若干の気まずさを感じるが、言われた事は自身が見失っていた事実で、丞自身も己の未熟さを認識したところだ。
謝罪か礼かその両方か。とりあえず伝えるべく息を吸い込んだが、それは紬の言葉で制される。「分かった?」と。
時々、この幼馴染は見透かしたような瞳で見つめてくる事があった。
今この瞬間のように、澄んだ青色の瞳がどこか底なしにさえ見えるほどに、深い所を探り当てるように。
意味もなく背筋が張る。喉がごくりと鳴る。丞はただ、短く一言「ああ」と伝えた。


「許してもらえるといいね。約束の事も、監督と出かけた事も」


――――“監督と出かけた事?”


「あ、ああ。…そうだな」


引っかかった言葉に動揺し、返事に籠る力が弱まった。
それを紬は呆れた様子で見ていたが、彼には持ち直したように見えたらしい。それ以上の追及はなかった。
しかし、丞の中では自分の考えが至らなかった“もう一つの非”を挙げられ、寝耳に水の状態である。
監督と出かけた事。確かに、バイクの後ろに乗せて出かけたが、それがなんの非があるのか、丞には分からない。
紬が部屋に戻った事で話題は別へと移り、結局、引っ掛かりを解明する時間はなくなってしまった。
とりあえず、まずはエリカと話をする時間を作る――――その決意だけが、丞の中にこれからの道筋として明確となったものであった。


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