遙か3夢

やさしいひと
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22.咆哮







頭領――――熊野別当がヒノエであった。
随分と遠回りをしたものだが、最終的にヒノエ自らが名乗る形で明かされた熊野の秘密。
頭領が白龍の神子に執心である。そんな噂は当たらずしも遠からずと言った体であった。
つまるところ、ヒノエが白龍の神子に興味があったのは事実であり、それは熊野の頭領として源氏に組するか。
その決断を下すための偵察であったようだ。

望美が神子であることを知りながら、真実を隠し続けていたその姿勢を随分となじられたようで、バツが悪そうな顔を見せたのが印象に強い。
リンの言った『人には隠したい事もある』という言葉は全く届いておらず、弁慶が諭した『秘密を知る事の危険性』すらも理解されているのか怪しい。
薄ら涙を浮かべヒノエに向かう望美を見て、弁慶とリンはそっと溜息を漏らしていた。



結果的にヒノエを、もとい熊野別当をおびき寄せる事に成功し、また、その協力も得る協定が結ばれた。
今回の熊野参詣は源氏方にとって願ったり叶ったりな結果を収める事となったのである。
「せっかく熊野まで来たのだから本宮も見ていってほしいですね」熊野出身である弁慶の提案により、一行は当初の目的通り、本宮を目指す事となった。

速玉大社から熊野川を上る道すがら。
怪異を引き起こしていた怨霊を封じるハプニングも交えながらも、熊野を味方に付けた高揚感に満ちる一行の足取りは軽く、あっさりそれを破り進む。
まさにその姿は破竹の勢いさながら。一丸となって立ち向かうその様の中、ただ一人複雑な視線で見つめる人間がいた。

―――還内府、平重盛。有川将臣である。

そろそろ熊野ともお別れだ。譲の何気ない一言が将臣の耳にやたらと刻み込まれた。
何も知らず、幼馴染に連れ添う弟の背中は昔と変わらず、年相応の瑞々しい弧を描き出で立っていた。
その背に人を射抜く武器が備わっている事だけが非日常で、けれどそれを外してしまえばいつだって元の日常へ帰る事が出来るのだろう。
幼馴染とて、具足と刀を離してしまえばただの年相応の少女でしかない。
細い手足には少しばかり筋肉が増したか。けれどもしなやかな姿は十代の少女のそれで。あの頃と何も変わらない。


「有川君」
「……遠坂」
「何も言わずに出ていこうとするなんて……有川君らしくない」


本宮大社は目と鼻の先であった。
元々田辺で合流した際、本宮大社までは八葉でいると約束をしていた。
そろそろお役御免だと夜の闇に乗じて抜け出そうとしていたその背をリンは目ざとくも追いかけたのである。

向きを正し、彼女と向き合えば、図らずも月と向き合う形となる。リンの表情は逆行となり、見えない。
怒っているだろうか、悲しんでいるだろうか―――――いずれにせよ、表情で読み解けるほど将臣は鋭い人間ではなかったのだが。
ただ、彼女に違和感を感じている。分からないのが酷くもどかしい。


「何を考えているの?」
「…随分変わっちまったなと思ってな」
「………ああ、私達の事?」


昼間、譲さん達を見ていたものね。続けられたリンの言葉は、まるで他人事のような響きを持っていた。そう将臣は思った。
洞察鋭く人を観察する癖は変わらない。昔はそれで逐一傷つき、怯えていたのだから本質は変わらないはずなのに。

―――ぱちん。ぱちん。
疑問に散った情報が一つずつ繋がり、答えと言う形を成していくのを心中で悟る。
そうだ。彼女は、怯えなくなった。
以前はこんなにも真っ直ぐ、たとえ、将臣が相手であっても瞳を射抜くことなど出来なかったのに。


「もう元の世界へなんか帰ることなんて出来ない」
「――――それが遠坂の答えか」
「そう思ったのは有川君でしょ…違う?」


図星だった。年齢も気持ちも、何一つあの頃のまま変わらない二人の背を見た後では、自分を映す鏡のどれほどに歪であったことか。
年齢も、姿形も、心も。全てが塗り替えられてしまった有川将臣では、もうあの二人の隣に並ぶことは考えられない。
将臣とて元の世界が恋しくないわけではない。けれど、自分はここで新たな居場所を得てしまった。それを守りたいと願っている。
強く、強く。そしてそれは、目の前の、この同級生とて同じのはずだ。
志を共にしたいと、将臣はまだ、願う。


「遠坂」
「……私は、一緒には行かない」
「…まだ何も言ってねえだろ」
「目を見れば分かるよ」


強情だと思った。いいや、違う。重ねた視線のその先に見えたのは信念ではない。ただの“諦め”であった。

初めて再会した京の奥山、揺れていた瞳が儚く散る。淡く寂しげに、震えていた彼女はもうどこにもいなかった。
あのリンをここまで雁字搦めに塗り上げたのが、彼女の想い人であるのか、坐という使命であるのか、将臣には量りきれない。
放っておくことなど、出来るはずがなかった。


「俺と来い!お前が身を犠牲にしてその坐とやらになる必要がどこにある?あの白龍だとかいう胡散臭い神様とやらのいう事なんて聞かなくていいだろ」
「………」
「誰かを助けるってのは、自分の身も守るってのが大前提だ。捨て身の助命なんて、そんなもん誰も喜ばねえよ」
「でもここで私があの人を捨てて、貴方と行ったって誰も救われない。あの人も、私も、貴方も」
「遠坂!」
「……貴方も、あの子と一緒」


トーンが変わった。一瞬で空気が入れ替わる。
俯いた彼女のシルエットが小さく震えて、爪が食い込むほど、強く握られた両腕の軋む音。静寂にやたらと大きく届いた。
顔を上げた勢いで周囲に散る白い髪は月の光に透き通り、糸のように散った。表情は、やはり、見えない。
髪の隙間から月が照らすその先がきらりと輝いた。届いたのは、涙声。


「自分が正義だって。正しいんだって。そうやって常に誰かを踏みにじって進んでいく」
「………」
「助けてるつもりでいた?…いつも奪われる側の気持ちなんて、考えたことなんてないでしょ」
「……遠坂」
「そんな人“優しい”なんて思わない。好きになんて、なれるはず…ないよ」


それが決定打だった。その言葉を吐き出して、彼女は泣き崩れた。
他人の胸を抉りながら、諸刃の痛みを被り、彼女も痛む。本当に損な性分だと思った。
今まで己のしてきたことを否定する事は出来ない。
しかし、彼女の為だと言いながらそれが彼女を苦しめる可能性があるだなどとは、将臣は考えたことはなかった。

いつだって、周囲は笑顔だった。
いつだって切り開き進む肩を頼られた。
それは自ら望んだことではなかったかもしれないが、そんな事を振り返るよりも、誰かを救えた達成感に満ち溢れていた。
“誰かの幸せの下では誰かが不幸になっている”―――いつだって、彼女は、泣いていたのだろうか。

「兄さんはいつだって勝手だ」不意に、譲の言葉が思い出される。
考えすぎだと一言でくくっていた弟の性分を、欠片ほども理解できていなかったのだろうか。


「…分かった」


世話になったと伝えておいてほしい。
憎むにも憎みきれない源氏の戦友たちに言付けを頼む。それ以上はもう何も言えなかった。
泣き崩れるリンに背を向け、将臣は闇の中へと歩き出す。帰る場所は京ではない。福原―――平氏の本拠地へ。

立ちはだかる熊野の木々は煤けたように黒く、闇深さを演出する。重なる木の隙間を振り返れども、もうその先にリンは見えなかった。
それを確認し、張り詰めさせた意識を解き放つ。溢れ出るのは女々しい本音だ。誰にも見せられない、等身大の己。
前に進むことを阻む、求められていない“有川将臣” そう、将臣は願ってしまったのだ。


「…それでもお前を救い出すのは、俺でありたかったんだ」


抱きしめて、閉じ込めて。怯える手を、己が引かねば歩くことが出来ない彼女に恋い焦がれた。
既に彼女は答えを得て、自らの足で立っていても、それでも。
もっと早く、伝えたらよかった――――届くことない後悔の言葉が、夏の風に浚われ雲散していく。
ただ今は、それだけだった。



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