遙か3夢

やさしいひと
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17.痛快







火傷による負傷兵を見越して構えていた馬瀬の医僧らは、源氏軍の帰還に肩透かしを食らう事となる。

大将帰還との伝令を聞くや否や、蓮華草を抱え、担架隊を引き連れ出迎える。リンの顔は真っ青であった。
しかし、一行を見やっても火傷らしい傷を負った人間はおらず、一般兵らにも担架で運ばれるような負傷兵はいない。
混乱するリンに伝えられたのは「神子が雨を降らせて火をお鎮めになった」その一言であった。
呆けてしまった脳では気の利いた言葉は浮かばず「あ、そうですか…」の言葉と共に持っていた蓮華草は地へと落ちて行った。


「それよりリンちゃん、この人を…!」


譲と望美が前に出る。屈んだその背には意識を失い、ぐったりとした青年が乗っていた。
紫の奇抜な髪色、瞳は閉じられているが隠しきれない気品は上等で纏う衣を見ても一級品であるのは明らかだ。
貴族であるとか、そういった身分の人間なのかもしれない、リンはすぐさま担架隊へ青年を陣の奥へと運ぶよう要請した。
しかし、それを止めるのは九郎だ。
彼の立場を思えば、見ず知らずの人間を懐に入れるなど了承しかねるのは大いに納得がいく。
人道的な思いとで揺らぐリンを後押ししたのは望美で。
そして、言い争いを始める二人を尻目に、指示を下したのは弁慶である。


「今の内に行ってください」


結論の出ない二人が気になりながら、リンは担架隊と共に青年を陣へと運び入れたのであった。



シーツに横たえたその人物は深く意識を閉ざしているようで、担架が揺らしても瞼ひとつ動く事はなかった。
月の光に照らされて輝く肌は白く、結い上げられた髪は手入れの行き届いた流線を描いている。
脈は正常、ざっと見たところ大きな外傷も見られないとの医僧の言葉にほっと胸を撫で下ろす。
どうすればいいのか尋ねれば、医僧らは何もすることはないとの返答を返した。
彼がどういう立場の人間であるか分からない以上、目を離す事は躊躇われる。
九郎と望美の議論の結論も聞かぬまま、勝手な判断を致しかねるのは事実だ。自分はあくまで手伝いであり医師ではない。
『医療の現場に敵味方関係ない』と言えるだけの立場ではないのだから。
それよりも気になったのは、彼の、


「具合はどうですか、リンさん」
「…あ、はい。医僧の皆さんが言うには、気を失っているだけとのことです」


思考が遮られる。
幕を上げ顔を出したのは弁慶であった。
僧達に教えられた診断を伝えると、彼は小さく返事を返し青年の前へと出で立つ。
弁慶の話を聞く限り、あの青年の処遇を巡り相当の対立があったらしい。
九郎の懸念はリンの予想通り、軍紀の乱れ、間者のリスク。その二点であった。
望美の方は言わずもがな、人道的に放っておけないという点である。
どちらも秤にかける事叶わず、どちらも必要でどちらも正しい判断材料だ。リンは思った。
結局のところ弁慶がこっそり奥に通した事により、望美の要求が通る形となったのだが、九郎の方はもちろん納得しているわけではない。
暫くは理不尽な叱責を受けるかもしれない、との弁慶の言葉に頷く。
その反応を受け取った後、弁慶は再度、青年の様子の確認を始めた。
頭部から足の先、辿る左の手のひら―――弁慶の視線がそこに至った時、リンは問うた。
手のひらのそれは、八葉の証ですよね。と。
弁慶はにこりと笑って肯定した。「ええ、天の玄武の役割を担っているようです」と。


「……みんな、神子に集うのですね」
「リンさん」


出かかった恨めしい言葉を慌てて隠す。京邸にいた頃もそうであったが、八葉や白龍は望美をやたらと褒め上げる姿を見せていた。
それが正当な評価であれば特別何とも思わなかったのだろうが、あまりにも過剰だと思われる称賛がどうしても癪に障るというか、なんというか。


「(……ただの僻みじゃない……醜い…)」


白龍は永い永い時を一人、時空の狭間で神子を待ち続けたのだという。気が遠くなるような孤独を抱え、たった一人をずっと、ずっと。
その想いを量ると胸が苦しくてたまらない。
春を待ち続けるその背はか細く、名を呼び続けていた白龍を疎ましく思うだなどと、私は――――


「リンさん」
「……っあ、」


巡る自責を塞き止めたのは弁慶の手であった。そっとそれは左頬に添えられ、自然と視線が重なる。
篝火に照らされる黄金のそれに滲むのは蔑みの色ではない。
ゆるりと細められた瞳は酷く優しく、頑なな蕾が花開くようなそんな気配さえ感じる程に。


「僕の教えたこと、覚えていてくれたんですね」


薬学の事であった。
五条で共に過ごす間、弁慶の手伝いをしている内にいくらか身についた薬草の知識。
馬背に残されたその時は不安に揺れたものだが、実際に携わってみればある程度の戦力となれたことが嬉しかった。

甘い言葉と優しい雰囲気――――何よりも愛おしい人との距離に沈んだ心が蕩けて形を無くしていくようだ。

己の手を重ねようと左手を上げて――――――夢が覚めた。

手のひらは空気を握りしめ、乾いた肉が軋むように、鈍い音が指に響いた。
顔を隠すように、そして彼の胸を強く押す。息を飲む音、離れた手のひら。はらりと白い髪は肩から零れて、横たわる青年へと掛かった。


「……弁慶さんの教え方が上手かった、ので」


手を重ねる刹那、目の端に光ったのは――――宝玉だった。
神子を守る使命を与えられた、八葉の証。

垣間見た瞬間リンの決意は鮮やかに蘇った。同時に激しく責め立てる。
決意を忘れるな、信念を曲げるな、と。
『忘れるな、お前の望みを。お前を立ち上がらせているその“存在意義”を』リンは心中で繰り返す。
言い聞かせるように、何度も、何度だって。

震える手は弁慶の胸から離れても止まる事はない。
隠すように胸に引き寄せ、抱きしめた。
折り重なる殻を柔く抱き寄せ、その奥に流し込むその名を――――そっと手放す。
もう、追うことなど出来ないように。


「………戯れが過ぎます」
「僕は、」


遠ざかる彼の姿が名残惜しい。
弁慶の言葉を遮るように、遠くから足音が響く。それに弾かれるように身を正し、迎えられたのは白龍の神子だ。
寸前まで九郎とでも言い争ったのか、その目にはやや疲労と高揚が伺える。


「弁慶さん、リンちゃん…敦盛さんの様子は?」
「おや………望美さんは彼の正体を知っていたのですか」
「…は、い。その」
「神子はそんなことまでお見通しなんですね。素晴らしいです」


望美は過去を知っている。
時折失態を見せる瞬間に居合わせる度に、リンは冷ややかな思いでそれを眺めていた。
しかし今はそれより気になるのは、先程までの雰囲気など微塵も感じさせない弁慶の完璧な切り替えに、積もる胸の鉛の香りだ。
それらに背を向けリンは二人を見ていた。ただ、見ていただけであった。しかし、妙な違和感を感じ顔をしかめる。
リンに気付かず二人は敦盛という八葉を囲んで看病を続けている。
その様子におかしなところはない。そのはずだが、


「………?」


胸の暗雲は晴れず、深い霧に手を透かしても何も掴むこともできない。
不快感から逃れるように、リンはその場から離れることを決め、幕の向こうへと立ち去っていった。

人気のない区分まで来て、心を透かすがやはり胸のそれは消えることがないのである。これは一体なんなのだろう。
先程見た弁慶と望美の並んだ姿を思い浮かべた。救いを求め心の枯渇の潤いを望む男と、時空を歪めてまでも願いへと突き進む女と。

救いを求める手、救いを差し出す手。
いつか大原の地で思った。望美はなぜ時空を戻してまで歴史を繰り返すのだろうと。
朔の深い黒龍への愛の話に、共感するように深く頷き、遠い目をしていた望美の顔から生み出した疑問は、
“胸に秘めた相手がいるという事?”


「……まさか……………いいえ、まさか」


誰より愛しい人と、誰より憎い人と、両極端の感情を振り分ける二人を見て何を思うか。

―――――かみ合う双方の精神の突起と窪みと。渦巻く思考はたった四文字を作り上げ、認識させる。
それは鉛を砕いて暗雲を払い去った。快晴突き抜ける空の高さはいざ痛快――――泣きたい気持ちでいっぱいだった。


「……どうして―――――よりにもよって……っ」


『彼は、待っている存在だからだ。強く鮮烈な、太陽のような存在を』


「どうして……っ!!」


―――――二人を見て“お似合い”だなんて。
どちらかが手を伸ばしたなら――――――彼の望みは、きっと結ばれてしまう。



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