遙か3夢

やさしいひと
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16.嫉妬







京北部の行脚を終え、京邸へ一行が戻った頃、神泉苑での雨乞いの儀も無事に閉幕していた。
雨乞いの儀を取り持っていた九郎もようやく任務から解き放たれ、ようやく一息つける、と綻ばせた顔が印象的であった。
初めて出会ったのは宇治川の戦いの最中であり、彼の信念と責任感の強さも重なり険しい表情をしていることが多く、こうして年相応の表情を見せる事は新鮮だ。
彼が彼であればあるほど、世の中が平穏だと定義づけてもあながち間違いではない。


あれから特別大きな動きはなく、リンも京邸での生活をやや持て余し始めていたある日のことであった。
食客では居た堪れないからと任せてもらった“洗濯”を終えて、自室へと戻る最中の事である。通りかかった居間から随分と賑やかな声が聞こえてきたのだ。
普段ならば各々自由に過ごしているはずなのに、と足を止めたのが運の尽きであった。
障子に己の影が映っているのを見て「しまった」と気付いた頃には時すでに遅し。引っ張られ居間へと連れ去られたそこには、懐かしい人物が笑っていた。


「…有川君!」
「よう遠坂。久しぶりだな」


豪快に揺らす広い肩。ざっくばらんな青い髪は変わらず健在だが、会うのは半年ぶりになる。
しかし時空が戻された今、実際に会うのは一年半ぶりとなるのだが――――思わず噛み締めてしまいそうになる唇をそっと舐めて誤魔化す。
崩れた襟を正して、居間の空いているスペースへと腰を下ろした。
どうやら一同は星の一族に関して説明を行っていたらしく、初耳となる九郎、弁慶は深く聞き入っているようであった。
当の本人である将臣はどこ吹く風と言った様子で、欠伸をしたり耳に触れたりしている。その耳に、リンは注目した。
話の腰を折らぬように、身を屈め近づいてそっと話しかける。


「有川君、その耳の…青い石は」
「ああ、これか。なんか気づいたらここにくっついてたんだよ」
「……なんか………ううん、何でもない」
「お前今、相当失礼な事考えただろ。…ちゃんと耳の裏も表もきっちり洗う男だぜ俺は」


「そうだ、有川君はA型だもんね。几帳面。」そんな馬鹿げたやり取りがおかしい。
くすくすと声を落として笑うと、つられて将臣も肩を震わせていた。こんな風に久々に笑う事が出来たのはやはり将臣の豪快な人柄のせいだろうか。
けれど、ひとたび間を置いたならばリン達と将臣は敵同士だ。直接的ではないものの、将臣はリンにとっての仇である。
心の底から笑いながらも、心には距離そして境界線がある。随分と業を背負ってしまったものだ。
一介の高校生に過ぎなかったはずの自分はどこへいってしまったのだろう。そっと瞳を伏せた。しかし畳に落ちた視線はすぐに揺さぶられる。
将臣がリンの肩を叩いたからである。顔を上げて重ねた瞳は深く、慈しむようで。言葉など必要なかった。


「…兄さんちゃんと聞いてるのか?俺と兄さんの話なんだぞ」
「そーんな怒らなくたってちゃんと聞いてるよ。とにかくよく分からないが俺は神子を守る八葉ってやつな上に、星の一族?なんだろ?で、神子が望美。なんか間違ってるか?」
「間違っちゃいないけどさ…けど、」
「お前らのいう事も分かるが、俺は俺で色々やらなきゃならない事があるんだ。八葉だってのは承知したが、つきっきりでは行動できない。構わないよな?」


譲の指摘で視線が離れる。
将臣らしいざっくりとした理解で、リンは再び笑ってしまった。

八葉、星の一族と伸し掛かっている“使命”は重いものであるはずなのに、一笑で済ましてしまえるその揺るぎない自信が果てしなく輝いて見えるのだ。
将臣とは学校で同じ係役員を担当していた頃も随分とそれでやきもきさせられたものだ。
“必要とされればどこまでも”リンの過剰すぎる責任感、自己犠牲感を否定しながら、肯定もする。
物事はバランスが一番大切なのだと教えてくれたのは将臣であった。
その姿はやはり揺るぎなく、リンはそんな将臣を好ましく思っていたし、信頼を寄せていたのである。―――すごい人だと思っている。


「構わないと思いますよ、僕は。―――――それより、気になるのは君の方です」


思い出に浸る思考が一気に引き戻される。声の主、弁慶は“いつも通り”、にこやかに微笑みながらリンを見つめている。
続いて弁慶の口から放たれたのは“坐”についての疑問であった。
神子、竜神、八葉、怨霊、星の一族――――白龍が関わるようになり、随分と多くの伝承が明らかになってきたが、未だ坐に関してだけは語られていない。
周囲はそれに大いに頷いた。せっかく一同が集結しているのだ、分かる範囲で把握しておくべきであるとの九郎の添え言葉に、一同は白龍の言葉を待った。
白龍はたどたどしいながら、懸命に言葉を紡いで説明を行ったのだが――――結論的には「分からない」という事であった。


「神子を召喚する時……私は力が足りなかった。反動でいくらかの記憶が失われている。将臣を同時列で呼び寄せられなかったのも、私の、力不足だった」
「でも白龍は私を神子だと分かっていたし、面識ない人も八葉だって言い当ててたよね。リンちゃんの事も何か分かったりしないの?」
「“坐”だという事は分かった。気が見えたから。でも、神子、私が時空の狭間で探していたのはあなただった…あなたのこと、忘れないだけで精一杯だった……神子、怒る?」


不安そうに見上げる白龍に、周囲もそれ以上聞き出すことは躊躇われてしまった。
望美に抱き着いて顔を埋める彼は神とはいえまだ十そこらの子供なのだ。あれもこれもと寄って集って質問責めにするには気の毒だった。


「五行の力を取り戻せば記憶も戻るということなのでしょうね」
「…そうだな、とにかくこれからも怨霊を封じ、神の力を取り戻すしかないのだろうな」
「あちらさんも動き出すだろうし…大変な事になりそうだね〜…はぁ」


武士らしかぬ態度の景時を朔が諌め、その場は和やかに終幕を迎えた。
けれどもただ一人、リンだけは終始浮かぬ表情だった。顔を一層青白く染め上げ、か細い指先を合わせただただ恐怖に震え続けていた。






京都行脚の報告を終え、解散の後、弁慶は九郎の誘いを断って京邸の自室へと戻っていた。
書物と生薬棚、収集した小物で足の踏み場もないその部屋の更に奥、唯一のスペースで一心に記録を記している。
流れる毛筆は勢い激しく、筆が擦れるまで気付かぬほどに先を先をと急いでいた。整理しながら書き進める事は不得手ではないが、特段今はその必要性も感じない。
ただただ記憶が途切れてしまう前に得たもの感じたものを記しておきたかった。
筆が置かれたのは、陽も傾く夕暮れ時である。
瞬きすら忘れて書き込んだ情報は小高い丘となり、目はびりびりと痺れ、弁慶は思わず後ろにそのまま倒れ込んだ。
転がした頭部に鈍い音がする。
近くにあったらしい薬草籠が頭に当たったが、痛みを感じるよりも思考が感覚を支配していたらしい。
体を右へと捻り、腕にもたれ掛かれば視界は黄緑の暗い草原が広がる。押しつぶされた眼球がどんより痛むが、それよりも、胸を支配していた感情に弁慶は苛まれた。


「(…………馬鹿げている)」


ちかちかと弾ける光の中、映し出されるのは身を寄せ、そっと耳打ちするリンの姿だった。自分ではない男に。
その映像の中に、出会った時の洗練された美しい彼女はない。
年相応の屈託ない笑みを浮かべるうつくしい女があるだけであった。
リンと将臣との会話から始まったちりちりと胸を焦がす違和感は、時が深まるにつれて目に見えてしまう程に火が上がり瞬く間に燃え広がり、目を曇らせた。


「(彼女の過去など興味がないと、見向きもしなかったのは僕だ)」


その唯一の自責があったからこそ辛うじて醜態を晒す事を避けられたことが出来たのであろう。
己の処世術が発揮された事に救われたと弁慶は深く思う。
けれど、その選択は誤りだった。処世術―――ゆるりと笑ったその“笑顔”が“偽り”であることなど、彼女は容易く見破ってしまうのだから。
あの、怯えた瑠璃が、心の次に目を焦がす。
怯えさせたいわけじゃない、それなのに。交わらない想いが言葉にならない代わりに痛みを生み出すのだ。
ちりちりと、じくじくと、じんじん、と。


「………彼にはあんな顔で笑うんですね」


最後に一言そう呟いて、弁慶は心の蓋を閉じた。これ以上耽ろうとも何も変わらない事を知っている。
己が贖罪の為に、そして彼女を元の世界へ帰すために。
坐の存在意義を知るのは容易ではなく、けれどもそれに向けてやらねばならない道筋が示されたのは収穫であった。

八葉として神子の傍に在り、九郎と共に戦に加わり、平家を―――――清盛を屠る。
己の立てた軍略の、手順を違いなく踏んだらば龍神の五行の力は満ちる。
清盛を屠る前に満ちてしまえば、彼女は白龍の時空越えの力で帰ることが出来る………そのはずだ。
腕を押し上げ見つめた先、流水のように流れる天井の木目を辿って、弁慶は心を踏み固めた。ぬかるむ事無きように、何度も、何度も踏みつける。
けれども、最後まで瞼の裏に映っていたのはリンのあの顔であった。
愛らしくきらきら輝く満面の笑顔。瞼の裏の中でさえも、それは自分には向いてはいなかったけれど。



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