遙か3夢

やさしいひと
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05.長者







毎日のようにニュースで耳にした熱中症注意の言葉が遠い記憶のように感じられる程に、穏やかな気温が続いている。
それでも相当の気温である事に変わりはないが、日を浴びるだけでくらりと酔う熾烈な暑さはどこにもない。
夏風に誘われちりんと歌う風鈴は涼やかに、流水の音色と混ざっては耳に留まる。
透き通る音色は淀みなく私の体を突き進んでいった。
どこまでも青い林と森と、その先にある晴天と白い太陽。
右手に阻まれる水の流れにゆらめく白い布をぼんやり見つめている心はただただ平穏であった。
輪郭をなぞり、顎から落ちる雫が川へ飛び込む音で意識が覚醒する。
それを合図に、休めていた腕を動かし、私は作業を再開した。


「………夏、」


そう、季節は巡り、夏が訪れていた。
灼熱とまでは言わないまでながら、刺す様な日差しは暑く、遠く見える五条大橋には陽炎が現れている。
暑いから日陰で作業するようにとの家主の忠告どおりに、洗濯をしていたはずであったのに今やこの身に降り注いでいる熱射に蕩けているのは、思考か、はたまた時間か。
季節の巡りとは残酷で、追いつけない心と裏腹に振り向くことなく進んでいくそれは、気がつけば麻の着物が馴染むまでに進んでいた。

ここにいること

その答えはまだ、出ていない。



ぱしゃん、水に落ちる音と共に全身に纏った水の温度。
ああ、また、心配させてしまう。
穏やかなあの声が荒立つのを聞きながらけれどもその表情には霧がかかったようで、見ることが出来ない。
一人では立てない己の弱さに酔いながら、流される身を他人事のように見ている私に、どうか。


「(生きる理由を、ください)」


泣いていたのは怖かったからじゃない、ただ、空しくて情けないからだなどと、どうしたら口にする事が出来ただろうか。









「本当にびっくりしたんだからね!!」
「す、すみません……」


この年になって大目玉を食らう羽目になるとは思う由もなく、元より自主性に欠ける性格もあってか、決められたルールを破る性格ではなかったし、
はいはいと指導者に従い尽くしてきたこともあってか、この状況が上手くのみ込めず混乱していた。
とはいえ川を御伽噺の桃よろしくどんぶらこと流されてきた状況に立ち会った人間からすれば血相変わる光景であったに違いない。
ようやく現状を理解したところで、罪悪感が後追いでやってくるのは些か都合がよすぎる気がしなくもなかったが、ふかぶか頭を下げる。
ぽたりと落ちた雫が地面を染めたが、すぐに乾いて消え去った。季節は夏。
どこまで心此処にあらずなのか、呆れるほどに他ごとばかり考えている。

私の思考は今、あの冬の川の中へと戻っていた。



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