トリコ夢

手無し娘
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あの人はとてもとても鋭い人だから、見なくていいものまで見てしまう人だから。
そして未来までも見てしまって、最善の選択をくれる。時にそれは、私の五体を締め付け苦しめる。
優しさが苦しいなどと思う日が来るなんて、貴方に会うまで知りませんでした。


ねっとりと舐めるように。時に密に絡まり蛇の様に。顔を傾け絡んだ腕に擦り寄る仕草は二番目の彼氏に教わった事。
引き寄せた腕に自慢の乳房を擦り付け、薄っすら口を開け、隙を見せる仕草は四番目の彼氏に教わった事。
ぺろり舌を舐め、赤く茹で上がった耳に唇を寄せる。少し息を吹きつけるように、か細く囁く、悪魔の言葉。
たった数十分で虜となった男は、鼻息荒く首を立てに振る。犬のようなその仕草に思わず蔑むような笑みが溢れ出たが、決して悟らせない。
にこりと妖艶に微笑んで、洗脳は完了した。絡んだ腕をそっと離し、去り際に念を押す。


「…手筈通りにお願いね。貴方が失敗しちゃうと私、死んじゃうんだから。ね、お願いね」


言い残してリンはそそくさとその部屋を後にする。男が何か叫んでいるが振り向きはしない。
急ぎ足で次の目的地へと進む。これは全て起動の手順だった。全てが上手く回らなければ、作戦は成功しない。


「…それにしても」


先ほどの板についた毒婦の振る舞いに苦笑する。ほんの数日前までクッキー一つ選ぶのに顔を赤らめた女の色など欠片も感じられない、下種な色だ。
とても寂しいことのはずなのに、胸を支配するのは妙な高揚だった。そして深く頷く。これが本性なのだと。
こうして男を渡り、操り、共存するのがお似合いな星巡りに生まれたのに、なぜあんな綺麗で温かい場所に留まったのか、身の程知らずにも程がある。
リンは自傷気味に笑った。今夜で別れを告げる、綺麗な男と綺麗なあの家に、平和をもたらすことが出来るのは、今は私だけ。元凶が己であるのにおかしな話だとは思うが、それでもそう思えば少し救われる気がしたのだ。
最後に訪れた屋敷を後にして、家へ帰る約束の木の下へと足を進ませる。
さあ、これで準備は整った。あとは、最後までいつも通りに振舞うだけ。
明日。目が覚めたら。


「ココさんは、きっと」


幸せな元通りの生活が待ってる。キッスと二人で、また美食屋の仕事を始めたらいい。
名残惜しげに話してくれた、彼の人生のフルコース。そのまだ埋まらぬメニューを探し、冒険を重ね、そして、見つければいい。出会えばいい。


「…ちゃんと正常な味覚を持った、料理人を、コンビに…パートナーに」


声が震えた。じわりと視界が滲んで、唇が痙攣する。
泣いてはいけない、普段どおり振舞わなければ気付かれてしまう。気を張って涙を押さえ込んで上を向く。
空は悲しいくらい晴れ渡り、透き通った風が流れていた。大丈夫、笑える。いつも通り、振舞える。


「(…大丈夫。ちゃんと、さよならできる)」


再度見上げた空に黒い影が見え、次第に羽音が周囲に響き渡る。
美しい漆黒の羽、毅然とした誇り高いその姿。見た目に恥じない知性ある仕草に、優しい瞳に。


「迎えに来てくれてありがとう、キッス。…さあ、お願いね」


高らかに声をあげ、空へ羽ばたく。
空の番長と呼ばれたエンペラークロウ・キッス。最後のフライトをひっそりとかみ締め、リンは空へと羽ばたいていった。


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