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□てのひらの雪2
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珍しく仕事が10時までに片付き、帰り支度をしていても追加の仕事の声がかかることもなく、
安堵するような思いで木佐は首にマフラーを巻いた。
今日は直帰しない。丸川から地下鉄で雪名の務める書店へと向かう。
彼の務めるブックスまりもは都内の中でも指折りの大型書店で、ビルまるひとつ書店である。
掲げられた電光の看板をずっと見上げていると、首が痛くなってくる。
木佐は入ってすぐのエレベータに乗って、彼がいるフロアのボタンを押した。

エレベータの中には雑誌や文学の広告がそこらじゅうに貼られていてこれぞ書店という雰囲気を醸し出している。
そして全体的にピンクの広告もあった。木佐の所属するエメ編の出版である少女マンガだ。
残念ながらと言っていいものか、それは木佐ではなく羽鳥の担当する吉川千春の作品だったが。

真正面のフロアを示す表示が徐々に上がっていくのをぼーっと見ていたせいで、木佐は途中の階で乗り込んできた
長身の男に気づかなかった。彼が声をかけてきた時、きっと自分は怪訝そうな顔になっていたに違いない。
「あれ、翔太?」
翔太。この書店を訪れる者で自分のことを翔太、と馴れ馴れしく呼ぶものはいただろうか。
雪名でさえ木佐さんと呼ぶのに。
そこで木佐の脳裏にある男の顔がよぎった。この書店で会った(というより来る前からあとをつけられていた)
以前バーで会った男。
木佐が雪名と交際を始める以前に関係を持った男たちの中には自分のことを「翔太」と呼ぶ者も多かった。
その大抵は木佐が18歳以下と思っているからである。本当は自分よりも年上であることを知らずに。

木佐は嫌な予感が頭をよぎるのを感じながら恐る恐る声をかけてきた人物のほうへ顔を向けた。
「・・・?」
こちらを向いた長身の男の顔を見た瞬間、木佐は一瞬にして懐かしい光景を見たような錯覚に陥った。
誰だか判明する以前に、こいつは自分の付き合った男ではない、という安堵とほっとするような安心を覚えた。
「あ、やっぱり翔太?」
人のよさそうな笑顔。さらりと爽やかでどこか甘さを含んだ優しいテノール。長身で見おろされているにも
関わらず威圧感を与えない柔らかな雰囲気。
「・・・侑史?」

長谷川侑史。高校時代の友人である。心を許せ、気楽に付き合える数少ない友人のうちの1人だ。
入学と同時に懇意になって、それから気が合って親密になった。高校時代の半分はこいつなくしては語れないだろうと
言えるくらいにまで親しくなったのだが、2年の終わり頃に関西の方へ引っ越してしまったのだった。
それきり会えていない。しばらくは連絡もとっていたのだが、次第にそれもなくなり、
今やお互いアドレスも変わって音信不通となっていた相手だった。

「侑史おまえ、いつこっちに戻ってきて・・・」
「うわあ翔太、まさか会えるなんて思ってなかったよ。すげえ嬉しい。」
「ああ、俺も嬉しいよ・・・まさかこんなところで会うなんて。」

いつの間にかエレベータは目的の階に到着していた。長谷川もそこで降りると言ったので二人してエレベータを
降りた。雑誌コーナーに用があると言ったので、しばらくお互いの話をしながら店内を彷徨いた。
といってもこんな夜更けに男2人して書店で会話を弾ませるのもどうかという話なのだが、
木佐は、久しぶりにあった旧友との再会の驚きととまどきと嬉しさでそんなことは全く考えもしなかった。
ましてや自分の来店を待って、雪名が雑誌コーナーの様子を窺っていたことなど。

長谷川は両親の仕事の都合上、高2の終わりに関西に移動したのだった。東京で生まれ育ったのだから、
そのまま一人暮らしをしてもいいのでは、と木佐は思ったのだが、
長谷川は関西での暮らしも経験してみたい、と自ら付いて行くことを希望したのだった。
行き先は京都。彼の話によると、向こうで大学を受験し、就職も一度は向こうだったらしい。
もともと東京に住んでいたという事情を知った、長谷川の勤め先が東京への転勤を命じて、彼は3ヶ月ほど前に
こちらに戻っていたらしい。

「おい、それでも立命って結構賢いんじゃないか。早慶と並ぶくらいだろ。」
「それは誤解だって。関西圏の私立ではまあまあだけど早慶のほうが断然賢いから。立命大出身って言っても
そう大してエリートってわけでもないんだよ。」
長谷川はその聡明そうな見た目に似合って勉強もできた。見た目もそこそこ、運動もできて性格よし、
性格も真面目であまり浮いたことやヤンチャはしない。完璧なエリートだった。
「へええ、で、お前も結局出版社勤めかよ。」
長谷川も大手の出版で営業をやっているらしい。高校の頃から木佐とは趣味が合い、漫画も文学も好きで
将来は出版に関わりたい、とよく夢を語り合ったものだ。

「え?マジで、お前まだ独身なの?」
「そうなんだよ。よくタイミングを逃したっていう奴いるだろ?でも俺の場合はなからからっきしで。
いけそう、っていうのが全く無かったんだよな。今結婚とは程遠いよ。」
話は横道にそれ、歳相応の悩み事を打ち明け合う。
人に言えたことではないが、長谷川ももう30だ。だが木佐と同じく独身で、現在アテはないらしい。
この見た目で大手出版社勤め。仕事もできて愛想もよい、おまけに家事もできたとなると、
速攻売り切れ御免というのが普通なのだが。
木佐と違ってゲイという明確な理由もなさそうなので、恋愛よりも仕事が楽しかったタイプの人間に分類されるのかも
しれない。
「木佐はどうなの?パートナー、見つかった?」
長谷川には高校時代にカミングアウトしてある。嫌悪感を持つこともなく、かといって変な目で見るわけでもなく、
ごく普通の友人として接してくれた数少ない友達だ。
木佐は生まれてこの方男しか好きになったことがないが、長谷川はそんなこと関係なしに
フラットに付き合える、同性の友人だった。
平たく言えば、普通の友達。長谷川には他の同性に抱くような感情は一切持ったこともないし、向こうもそうらしい。
その関係が、木佐は気に入っていた。

長谷川は自分より小さい木佐の目を覗きこむようにして、問い尋ねる。その目は優しかった。
恋人の話が出た瞬間、今自分たちがいるこの場所は雪名の職場であったことを思い出して、少し顔を伏せた。
からっきしの長谷川の前で惚気るわけにはいかないが、今までで一番上手くいっているとは思っている。
「あ、ちょっと顔赤くなった?あーっ、上手くいってるんだー。」
「なっ、赤くなってねえよ!暖房がきついだけだって!」
「でも幸せだろ?」
「それは・・・」
顔を伏せていたので長谷川の顔は見えなかったがにまにまと笑われている気がして、また恥ずかしくなる。

何気なしに手にとって開いた雑誌をペラペラ捲りながら、木佐と長谷川はまだ盛り上がっていた。
何の気兼ねもなく、フランクに会話できる親しい友人。この気楽さと楽しさは何年ぶりだろう。
「ははは、じゃあ関西弁もペラペラってわけか」
「うーん、そうでもないんだよなー。こっちに戻ってきたら普通に標準語で話せるし・・・
なんつーか、中途半端な感じかなー。時々、向こうのイントネーションが出ちまったり、向こうの友達と
会話するときに、『だよなー』とか言っちゃったりしてさ。」
「え、『だよなー』、じゃなかったら何なんだよ。」
「『そやなー』とか『やんなぁ』かな。」
「へー、」

長谷川と話すのは楽しく、手元にある自社の出版物について語り合うのも楽しかった。
男同士でも数年ぶりに会えば止めどなく様々な話題が漏れ出す。会話に花咲くとはこのことだ。
そして、そうして流れる時間が楽しくて木佐はまさか、雪名が複雑な表情を浮かべてやってくることなど
予想もしていなかった。
そして雪名のその表情のわけが、隣にいる長谷川であることさえ。




続きます


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