短編
□vandalise
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夏休み。
どこかの部屋で停電を利用して百物語が行われていたり、どこかの高校からキャンプ中の学生が嵐に見回れ、こっそり寮に入って来そうなそんな夜。
白木樹季が、訪ねてきた。
火事騒動の後貸していた着替えを返しに来たらしいが、外は嵐。このまま歩いて帰らせるわけにもいかない。しかし、流石に泊めるわけにもいかない。
先日まで、連休中に使っていた空き部屋があるので放っておけばそこに行くだろうと思い、閉め出したのだが、この阿呆はなにを思ったか嵐の中を歩いて帰ろうとしたらしい。
タオル貸して、と言いながら、野良犬のような姿で綾部の部屋に戻って来た。
ドアを開けた瞬間、あ、やばい、とは思ったのだ。
樹季の姿を目に入れた瞬間、やめろ今すぐ閉め出せ、と頭の中で警鐘は鳴ったのだ。
しかし、ぽた、と樹季の髪から滴った泥水を見た瞬間、綾部の中で何かか切れた。
「うわ!?」
気が付けば、綾部は樹季の手を掴み、自分の部屋に引き入れ、壁に押さえつけていた。
まだ、冷静な部分は残っている。
落ち着け、今すぐ手を離せ。
そうすれば、『発作』は抑えられる。
しかし、停電で視界の自由がきかない中、漂ってきた生臭い、半乾きのモップのような匂いが鼻を突き、綾部の冷静な部分を突き崩していった。
泥水に染まったシャツ。小枝や草の張り付いた髪。床に滴り落ちていく、雨水。
「……もう、我慢できん」
「待っ」
焦ったような樹季の声が聞こえた。
これが見知らぬ、赤の他人ならば、まだ我慢ができた。
しかし、白木樹季はどういうわけか綾部の警戒を解いて近付くのが上手くて。
綾部の方も、いつの間にか他人と自分の間に張っている壁を、樹季に対しては薄くしてしまっていたのかもしれない。
「脱がすぞ」
「はいっ!?」
普段兄妹にしていたそれと似たような調子で(それにしてもあの頃は『発作』でなかったためもう少し落ち着いていたが)綾部は樹季の服に手を掛けた。
*****
数分後。
意外と粘る樹季を押さえつけ、どうにか脱衣所も兼ねている洗面所まで連れてきた。
「だから自分で着替えるってえええええええええええええええ!!」
きいいん、と洗面所のタイルに反響して樹季の声が綾部の脳を揺さぶる。
樹季は普段無口な癖に声を出したらそれはそれでよく通る。
綾部は一度樹季のシャツから手を離し、片手で樹季の口を塞いだ。
「やかましい、近所迷惑考えろや」
「……!……!!」
何かを言いたそうにしている樹季を無視し、綾部は樹季を洗面所の壁に押さえつける。
右手は樹季の口。左手は樹季の両手。
しまった、どうやって着替えさせよう。
綾部が動きを止めたのは、そう戸惑ったからだった。
その時。
ぱっと洗面所の非常灯が点灯した。
停電は復興しなくても洗面所やトイレ等の非常用の電気は生きているらしい。
明々とまではいかないが、周りが見渡せる程度には明るくなった。
洗面所の台も、洗面所のタイルも、洗面所の鏡も、よく見えた。
鏡に映った自分たちの姿もよく見えた。
女子生徒を洗面所の壁に押さえつけ、両手を縫い止めて口を塞いでいる自分の姿が、よく見えた。
「……」
ゆっくりと理性が戻ってくる。
綾部は、そろそろと樹季の両手と口から手を離した。
そして、どしゃあっとその場に崩れ落ちた。
「……綾部?」
まだ困惑から抜けきっていない樹季の声が上から降ってくるが、とても顔を上げられない。洗面所の端に置いてある着替えの方を指差すのが精一杯だった。
「……あ、じゃあ、お借りします……?」
そろりそろりと樹季が着替えに手を伸ばし、洗面所から出ていった。綾部が動きそうにないので、部屋の方で着替えることにしたらしい。
……やってしまった。
……やってしまった!!
『発作』を起こさないよう、今までずっと人と距離を置いて来たというのに、すべてが水の泡だ。
樹季はきっと、さっきの行動の訳を問い正すだろう。
そうすれば、立場上、綾部は黙秘を貫くわけにはいかない。
必然的に綾部の事情を話さなくてはいけないだろう。
……自分でも思い出したくない過去の事を、どうやって説明しろというのか。
そんなことを考えていたら、着替え終わった樹季がひょこっと洗面所に顔を出した。
「ハンガー貸して」
「そのまま干すな。……洗う」
じゃあ、と樹季はなんの抵抗もなく、さっきまで自分が着ていたシャツとジーンズを綾部に渡す。
さっきあんなことをされたのに、けろりとして普通に接してくるのは、危機感という点でどうなのか。
複雑に思いながらも、シャツの泥染みが気になったので、綾部はのろのろと立ち上がる。洗面台に湯を張り、そこに漬けた。
「下着はどうした」
「流石に着てる」
ここが実家なら妹の替えを貸すなりできたのに、と考えてしまうのは、さっきまで過去の自分を思い返していたからだろう。
そういえば、なにも聞いてこないな、と思いながら顔を上げる。
洗面台の鏡越しに、壁に背を凭せ掛けている樹季と目が合った。
「……なんも聞かんのか」
「聞かれたくなさそうだから聞かない」
いいよもう潔癖症ってことで、とさらりと言ってのける樹季は、案外大物なのかも知れない。
「落ち着いたら話せばいいよ」
「……嫌や」
ぱしゃぱしゃとシャツを洗う水音が止まる。
「……自分、もう俺に関わるな」
もっと早く拒絶するべきだった。
そうすればこんなことには、ならなかった。
唇を噛み、やっとのことで綾部が言った言葉を、樹季はあっさりと一蹴した。
「やだ」
「……俺は誰とも関わりたくないんや、自分とも」
「あのねえ綾部」
樹季の立っている位置は暗いので、樹季の表情は分かりにくい。しかし、今樹季が呆れた顔をしているのだろう。雰囲気で分かった。
「意地を張るのも結構。勝手に人と距離を取るのも結構。綾部の自由だからね。でも、その綾部の都合に私が従う道理もないでしょうが」
それは私の自由だから、と樹季は続ける。
「人と関わりたくない理由はちゃんとあるんだろうけどさ、綾部はそれ、本意じゃないでしょ」
「そんなこと、」
「そんなことない人は態々人が着てたシャツ洗わない」
今日の樹季はやけに鋭いところを付いてくる。
普段が大人しい樹季に予想外の攻撃をされ、綾部は思わず黙り込んだ。
黙り込んだ綾部を見て、樹季はひとつ溜息を吐く。
「まあ、勝手な私の予想だからさ、本当に綾部が嫌がってるんだったら悪いけど」
樹季は軽く目を伏せてから、二回瞬きをして顔を上げた。他の話題に切り替えようとする時の樹季の癖だ。多分樹季自身も気付いていない。いつの間にか、そんな細かな癖が分かるほど親しくなってしまっていた。
「私は馬鹿だから、綾部が嫌がってるのに気付かない。綾部のさっきの行動も、ただの潔癖症の症状だと思って、気にしない。それでいいじゃん」
今までと、変わらないし、変えないよ。
そう言いつつも、樹季はきっと色々なことに気付いているのだろう。気付いた上で、知らない振りをしてくれているのだろう。意外と人の感情を読み取ることが上手い彼女だから、今までも、もしかすると沢山のことを見ない振りしていてくれたのかも知れない。
「ごめんねえ、馬鹿で」
樹季が大股で、洗面台で動けなくなっている綾部に近付いてきた。かすかに身を震わせた綾部の様子を見つつも、やはりそれについてはなにも言わず、ただぐしゃぐしゃと綾部の髪を撫でてから、すっと身を離す。
姉が弟にするような、乱暴だけれど優しさの籠った撫で方だった。
「お茶勝手に貰うよー」
考えて出た、代わりの話題がそれらしい。
おう、と小さく答えて綾部は洗濯を再開する。
どういうわけか、白木樹季は本当に綾部に近付くのが上手い。
そうしてまたひとつ、綾部が作っている壁の一部を壊していくのだ。