「名前のないavventura」
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降りる駅まであと五分、と言う所で澪架深は気付いた。
――山下さん、学校、来てるのかな
――いや、でも……いつもサボってたし……鉢合わせることは……ないよね?
東校の皆に近況報告をするということは、忘れかけていたその問題に直面する事と同義だった。
電話であのザマだったというのに、実際に会ってそういう空気になったら、今度は物理的に逃げてしまわないだろうか。本当に。
「あのさ、」
「帰るとか言い出したら怒るかんな」
気弱な言葉が口をついて出る前に、隣に座る翔影がぴしゃりと言い放つ。
恵比澤家末弟恵比澤翔影は兄譲りの聡さと姉譲りの勘の良さで、いつも兄姉の心情を先読みしてくる。いつもはお利口だねえ凄いねえとべたべたに甘やかすところだが、今回ばかりは澪架深も顔色を無くした。
「だっ」
「だってじゃない。帰るって言ったの姉ちゃんだろ」
昨日の夜に、澪架深に一緒に埼玉に帰省しようと誘われた翔影は、驚いた顔はしたものの、すぐに了解して旅支度に乗ってくれた。
弟にデレ期がきた!と喜んで舞い上がっていた澪架深だが、彼としては見張りのつもりで同行を了解したのだ。
翔影は山下と澪架深の間に起きた出来事を知っている。知っているからこそ澪架深が寸前で怖気づくだろうと確信してついて来たのだ。翔影は佐伯と直接の面識はないが、自分と一緒に行って来いと澪架深に言った佐伯鷹臣という人物は、なかなか先見の才がある、と心の内でそう評価した。
「うっうっ。ああ、でも、報告、近況報告だけだから……!」
「現実から目を逸らすなよ。東校行ったら鉢合わせるのは避けられないだろ。あーもう顔あげろよ駅ついたぞ!」
澪架深の座る座席をばしばし叩いて(澪架深を直接叩かないのはなんだかんだいって弟気質だからだ)、翔影は澪架深を立つように促す。ふらふらと立ち上がる澪架深はいつもの元気など吹っ飛んでしまったようで、この状態で東校に行かせたら澪架深の体調の方を心配されるのではないかと思った。番長の事よりも。
恋をすれば人は変わると言うがこれはその内に入るんだろうか。そもそも澪架深の山下に対する微妙な感情は恋と形容していいのか。まず、恋とはどこから恋と定義できるのか。翔影は姉の姿を見ながら考えたがいまいちはっきりとした答えは出なかった。
「やれやれだ、ヘタレだね。ついこのあいだ山下さんについては、家族愛みたいなものを持ってるだけって言ってたじゃん」
姉の丸まった背に対し、ストレートに辛辣な言葉を告げる翔影。
だが、彼女は顔をちらりと上げた後、眉を下げながら口を開く。
「それでも気まずいよ!どうしよ、翔影!」
好きなら好き、気が無いなら無いとはっきり言ってやればいいのに。あのままでは山下があまりにも不憫だ。
「や、やっぱり近況報告は明日、」
駅から出るなりそんなことをのたまう姉に、翔影が舌打ちを零しそうになった時だった。「あれ、澪架深ちゃん?」
「え」
タイミングがいいと言うか悪いと言うか、聞き覚えのある声だと疑問に思うまでもない。
受験生と一応冠しているものの、サボり気質は抜けないのか、缶ジュースをもった山下がぱちくりとこっちを見ていた。
少し離れた自販機の所で、舞苑と、大久保もこっちを振り向く。
「あっ、あ、ども」
一目でわかるほどに動揺した澪架深と対照的に、山下は最初に驚いた声を上げた後は動揺らしい動揺を見せなかった。おかえり、といつもの調子で言って、軽く翔影の方にも頭を下げる。
「天深君は?」
「あ、と、あーちゃんはね、今回は来てないくて」
「ふうん」
「なに?どしたの平日に。退学になった?」
「なってないよ!!大人しくしてる!!」
「冗談だよ」
「舞苑さんの冗談よくわかんない」
「よく言われる。で、本当はどうしたの。山下に会いにきた?」
舞苑が挑発するように澪架深を見る。途中から入ってきた舞苑に怒鳴り返してからは調子を取り戻したのか、だんだんと普通に話せるようになった澪架深を見遣っていたのに。
珍しい、と思った。不快ではないものの、違和感が付き纏う。
「澪架深ちゃんはさ、」
挑むような、射抜くようなどこか鋭い視線で舞苑が澪架深に迫る。
その視線はさながら獲物を捕らえた蛇のようで、澪架深は視線が逸らせないどころか身動きひとつできない。
「ま、まあまあまあ」
穏やかな声で舞苑と澪架深の間に入ったのは大久保だ。さりげなく舞苑を澪架深から離して、距離をとらせる。
「電車、ずっと乗ってて疲れたでしょ。まず家に荷物置いてきなよ、ね」
「荷物なら俺が置いてきますから大丈夫ですよ」
澪架深の持つキャリーバックを奪い取るように取って、翔影は一人で長男の待つアパートへ向かう。大学に通う関係で一人暮らしを始めた長兄には連絡をしておいたから、留守であってもポストに鍵が入っているはずだ。
澪架深が一瞬絶望したような顔をしたのには気付いていたが、知らんふりだ。逃げ癖は良くないと思う。
「……あっ……と、じゃあ、舞苑も行ってやれよ、二人分の荷物、翔影君だけじゃ重いだろ」
「ん」
「え、いや、大丈夫ですよ、鍛えてますし」
「それでも俺の方が力あると思うよ」
カチンとした顔をした翔影だったが、事実だ。喧嘩もできるし、上の兄弟と違って嗜み程度に道場に通っていたこともあったが、翔影の戦術は技術メインだ。純粋な腕力は先輩相手に自慢できるほどじゃない。
「……じゃ、お願いします」
恵比澤家の荷物を澪架深でなく舞苑が持つという妙な構図になってしまったが、そう指示した大久保の判断は英断だったのだろう。そそくさと逃げるように澪架深たちから充分離れた所で、翔影はおそるおそる舞苑に聞いてみた。
「……舞苑さん、なんか、怒ってます?」
「そう見えた?」
「いや、えー……」
舞苑の表情は読み辛い。
その辺りの猫の心情を読めと言われた方がまだ簡単な気がするほど普段の生活では喜怒哀楽がないのだ。だから、翔影がそう問いかけたのはほとんど勘のようなものだったのだけれど、当の本人は答える気がないのか、曖昧な回答を、返答として返してきた。
翔影は考えて、ある可能性に行き当たる。
「舞苑さん、メール見ました?うちの姉の、山下さんへ返したアレ」
「なんでもお見通しだね、弟君は」
弟君、を主張するように言われた。
ぐ、と翔影は唇を噛み締める。踏み込み過ぎだとたしなめられているような気がした。
さっき舞苑が澪架深に詰め寄ったのを見ていなければ翔影は今ここで引いていたか、口をつぐんでいたかも知れない。
なんだかんだで兄姉にべったりですいません、と心の中で謝った。
絶対口にはしないが。
「うちのバカ姉、バカだからああいう返事に落ち付いちゃったみたいで。悪気はないんですよ」
翔影とて、澪架深が山下に返した返事がアレだと知った時には、なんでそうなったと問い詰めたい気分だった。一番上の兄と口を揃えてバカかお前は、と澪架深に冷たい視線を送ったのは記憶に新しい。それなのに、当の本人は何が悪いかわからずきょとんとしていた。恋愛ごとに疎いのは人のことを言えないので、責めることはできないが、もう少し自分の気持ちに目を向けてもいいんじゃないかと思う。
何が家族愛を感じてるだ、だったらあそこまで動揺も緊張もするか。
毒づいても意味のない事だと分かってはいたけれど、誰かに文句を言わずにはいられなかった。
「まあ周りが口出してもなるようにしかならないよねぇ」肩を軽く竦めて歩く舞苑はすっかりいつもの調子に戻っていた。
「あ、らためて、久し振り、です」残された澪架深、そして大久保と山下。流石は年上と言うべきか、大久保と山下は緊張が目に見える澪架深の様子に突っ込むことなく、久し振り、とごく自然な調子で挨拶を返した。
「で、どうしたの?今日学校だよね?」
「あ、っと、とりあえず番長さんの事、近況報告しようと思って」
なんだろう、なぜだか、一言一言を声にするのに緊張する。告白された緊張感からだけではない、いつもそばに居る双子の兄の存在がないからだ。いつもノリとテンションで乗り越えていた空気も、一人になるとなぜか乗り切れない。クラスが違うから四六時中一緒にいるわけではないけれど、それとこれとでは話が違う。
「澪架深ちゃん、移動しようか」わたわたと手を振って頭の中を整理していると、いつの間にかこちらに向き直っていた山下が、ぽんっと頭に手を置いて言った。
そうすると不思議なことに茹っていた頭がすっと冷えていき、言いたかったことだけが出てくる。
所在なく動かしていた手を止め、山下に目を合わせる。
「俺、ちょっと雑誌買ってから帰るね」
空気を読んだのか、大久保がすいっと二人から離れた。それを止めるでもなく、澪架深は残された山下にあの、と話しかけた。
「この間の……メールなんですけど。新しいケータイに慣れて無くて、失礼な間違いしちゃってごめんなさい」
「ああ、スマホは最初はね。気にしなくていいよ」
「それと、告白の返事……待たせてごめんなさい」
さっきよりも少し遅れて、山下が、いいよ、と答えた。
「澪架深ちゃん、疲れたでしょ。送るから、帰ろうか」
ごく自然な調子で言って山下が歩き出す。澪架深も続いて歩き出して、横に並ぶのだが、山下と歩調が合わず何度か駆け足になった。
「山下さん、もうちょっとゆっくり……」
何度目かの駆け足のあと、そう言って山中の顔を仰ぎ見た澪架深は絶句した。
山下の顔は何かをこらえるような、苦しげな顔をしていた。
澪架深と目が合った山下は、ばつが悪そうにくしゃっと笑っているのに、その表情は泣き出す瞬間のような悲痛なものに見えて、澪架深はなにも言えずにただ歩くことしかできなかった。
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あとがき。
最近舞園さんが好きだってことに気付いた。
謎の多い人ですよね