□通りすがりの16
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蛇口から絶え間なく水が出る音。
洗面台のボウルに水が溜まっては流れ落ちていくゴボゴボと言う音。
しきりに嘔吐く声。
ゲホ、ゲホ、と吐き出す声が部屋に反響する。
隣で洗面台に向かって屈み込んでいる青年の姿を、藍は成すすべもなく無言で見つめていた。
数十分前からずっとこの調子だ。
あれからシーは相変わらず吐き続けている。
この細い体のどこにそれ程出る物があるのか、と思える位だった。
どうすればいいのか分からず、とりあえず背中を擦ってやる。
それでも嘔吐きは治まらないようだ。
再び彼が洗面台に突っ伏した。
金髪は水で濡れそぼっている。
顔は脂汗が浮かび、真っ青だ。
整った顔は苦しげに歪んでいる。
それがまた痛々しい。
━くそ。
不躾な行動を取った自分を罵った。
あんな話を持ち出すべきではなかったのだ。
ましてや里の暗い一面の話など。
いくら他国の人間と言えど、踏み込んではならない一線と言う物がある。
どうやら自分はかなり深い所を足で踏み付けてしまったらしい。
それも、土足で。

「・・平気か?」

見当違いの質問だとは思ったものの、そう訊かずにはいられなかった。
目の前にいる若者がそれだけ弱々しく見えたからだ。
普段見せる毅然とした、どこかしっかりとした芯を持つ青年の姿とは余りにも懸け離れている。
自分よりも年下だから余計にそう見えてしまうのかも知れない。
ゲホリと彼が吐き出し、掠れた声で呟き返した。

「・・何とか。」

何とかで済むのかこれは。
どう見ても大丈夫には見えない。
が、シーはゆっくりと洗面台から顔を上げた。
乱雑に手の甲で口元を拭う。
そしてペッと洗面台のボウルに唾を吐いた。
喧嘩で殴られた時に、口に溜まった血を吐き捨てるような仕草だった。
容姿端麗な見た目とは裏腹に、シーの仕草はまるで粗野で荒っぽい男を連想させる時がある。
そのギャップが彼の持つ魅力でもあると言う事に、最近気付き始めた。
自分がもし中忍世代の少女だったなら。
彼のような端整な顔をした、いかにも大人しそうな男。
そんな男がいざと言う時に体を張って果敢に相手と向き合っているのを見れば。
喧嘩腰で敵意を剥き出しにしているのを見れば。
その何とも言えない絶妙な、外見と内面のアンバランスさに夢中になるに違いない。
舌打ちをしたり悪態をつく行動すらも、彼のような男に掛かれば魅力的に目に映ってしまう。
本人は全くの無自覚らしいが。
恐らくここにいるどの男性よりも彼は男らしい性格をしている。
女に間違われやすい事も大きく関わっているのかも知れない。
だから普段からあからさまに粗野っぽい振舞いをしているのか。
そこまでは当て推量だった。
だがこれだけは分かる。
几帳面さと大雑把さ。
冷静さと気性の荒さ。
礼儀正しさとがさつさ。
シーはその両極端の要素を持つ、何とも興味深い男だった。
内と外との、そして相反する性格との不釣り合いさがより彼の魅力を惹き立てている。

ようやく嘔吐きが治まったらしい。
荒く息をついて彼が壁に凭れ掛かった。
タイル張りの壁と床。
整然と並んだ洗面台。
病院の男子トイレだ。
シーの異変に気付いてすぐに、急いでここまで引き摺って来たのだった。
峠を越えた所を見計らい、小さく告げる。

「悪かった。」
「・・・。」
「脅かすつもりは全くなかったんだ。ただ、思った事を言っただけで。」
「分かってる。」

シーの声が制止する。

「分かってる。あんたは悪くない。」
「だけど・・・。」
「気にしなくていい。あんたが言った事は、全部正しい。全くその通りだ。」

そう言い切ると、ずるずると彼はその場で頽れた。
壁に凭れたまま力なく座り込み、頭を膝の間に埋める。
呻くように彼が呟いた。

「今思えば、そう思わなかった昔の自分が狂ってるように思えてくるよ。」
「・・・。」
「異常だったと思う。あの頃の俺達の里は・・・妙な仕来たりで縛られてた。」

そして黙り込む。
その様子をじっと見つめながら、頭の中を整理した。
いつ自分はシーの琴線に触れてしまったのか。
確か自分が彼に「白んぼ」と言う言葉を使った辺りから、整った表情に動揺が浮かんだのだと思う。
里にいる内に、自分は不本意にもいつの間にか無駄な知識を沢山吸収していた。
黒人が白人を呼ぶ時に使う、嘲りを含んだ呼び名。
それも里での生活を通して知ったのだ。
シーも白い肌を持つ人間だ。
あの言葉にあそこまで反応を示したと言う事は、つまり彼もその呼び名で呼ばれていたのだ。
と言う事は彼も自分が知っている白人達と同等の扱いを受けて来たのだろう。
もしくはもっと酷い仕打ちを受けたのかも知れない。
間抜けな男が見たらまるで女性にも見えてしまうであろう、端麗な顔立ち。
透き通る淡黄色の髪。
すらりとした体躯。
そして、数日前にトクマと同行していた彼が通行人に絡まれていた時の事を思い出す。
同時にある記憶が脳裏に甦った。
まだ雲の里に滞在していた頃の事だ。
この頃には黒人に姿を変更していた為、特に大した差別は受けずに過ごせていた。
が、ある時一人の黒人の男がニヤニヤ笑いを浮かべながらこう言ってきたのだ。

『可愛い顔してるな、あんた。俺と寝る気はないか?』

自分に衆道の気はないものの、すぐにその言葉の意味は理解出来た。
当時の自分は普段の容姿に、肌を黒くして髪を白くした姿を取っていた。
だから小柄で細身、肌もそれなりに綺麗な方だった。
童顔だった事も大きかったのかも知れない。
それも男が自分を誘った原因にあたるだろう。
本能的な嫌悪感に駆られ、その時はすぐにその場から逃げ出した。
今思えばあれは正しい判断だったのだ。
どうも向こうの里の男共は性別と言う概念を気にしない輩が多いらしい。
容姿が整っていれば、男であれ女であれとにかく誰とでも寝たがる男達の巣窟だった。
シーは確実に彼らのような輩の、恰好の餌食対象に入っている。
嫌な事が、あったのだろうか。

脳裏に先程シーが見せた、異常なまでの怯えた反応が浮かんだ。
ぐらぐらと危なっかしく揺れる、不安定な漆黒の瞳。
目の前にいる藍ではなく、どこか遠い場所を見ているような目をしていた。
顎に手をやったり、手首を掴んだりと言うボディタッチにも脅威を宿した視線をこちらに返していたように思う。
何より、こちらが側に近寄っただけでチャクラが張り詰めたのだ。
まるで警戒態勢に入ったかのように。
防護線を張るように。
━トラウマ、か?
シーのような女顔の若者が何をされるのか。
それは自分でもすぐに想像出来てしまう。
汚らわしい、忌わしい、胸糞悪くなるような。
そんなどす黒く塗り潰されたような事を、彼はされたのだろう。
世の中には下衆以下の思考回路を持った大人も山程いるものだ。
シーもそんな大人達に泥を塗りたくられた、「被害者」の一人なのかも知れない。
不覚にも胸に一抹の悲哀が浮かんだ。
━いつの時代になっても、歴史は繰り返すってか。
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