一話完結

□祈念
1ページ/1ページ



慶長五年 九月十五日 卯の刻


日の本のほぼ中心に位置する関ヶ原の地は、深い霧に覆われていた。
自分の陣周辺しか見えないからか、または霧のせいで妙に空気が湿っぽいからなのか。俺の手のひらは汗ばんでいる。

俺は、負けるわけにはいかない。

呪文のように唱え続けたその言葉が脳内で聞こえた。そうだ。俺は負けてはならないのだ。


「とーの!」


そのとき、家臣の前野忠康が場に似つかわしくない声音で俺を呼んだ。
俺は忠康を一瞥すると徳川家康がいる敵本陣の方向を見つめた。


「なんだ」

「もっと気ぃ楽にした方がいいっスよー」

「楽にしている」


はっきりと言えば、忠康は何故か不服そうだ。一体何なのか。漸く忠康を真っ直ぐと見れば忠康はもう一人の俺の家臣島左近に話しかけていた。


「絶対あれおかしいって!」

「それを俺に言うなよ、忠康」


一体何だと言うのだ。
俺はそんな気持ちをこめて左近を見つめた。


「……つまり、忠康は殿を心配してるんですよ」

「心配?」

「だって殿、さっきから向こう見て全然動かないんですもん」

「そう、か?」


向こうと忠康が指したのは先ほど俺が見ていた家康の本陣の方角だ。あまり、意識してはいなかったのだが。


「本当の総大将は毛利輝元さんですが、実質は殿です。大将が緊張していると皆に伝わりますよ」

「……そう、だな」

「あーあ、いいとこ持ってかれちゃったなぁ」


不服そうに忠康が言えば左近がいつもの口癖を呟く。


「全く、年なんですから俺を働かせないでくださいよ」

「殿ー。まだまだ現役大丈夫スよ、この人」

「当たり前だ。まだこき使う」

「自信満々に言うところじゃないですよ」


フンと鼻で笑う。

なんだ、一瞬にして気が楽になったではないか。やはり俺の家臣なだけあると思うと同時に良い家臣を持ったとも思う。


俺は改めて自分に言おう。
俺は負けてはならないではなく、負けない。必ず俺は買ってみせる。


俺は手を強く握りしめた。手はほのかに暖かかった。







[Topへ] [短編一覧へ]

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ