目にしなければ、良かった。
この目に映しさえしなければ、こんな想いを抱く事もなかったのに。
『chains』
寝息が聞こえる。
深い眠りに沈むような静寂。
いつもならば喧騒に包まれている筈の署内も、
今日は、不思議な程に静かだった。
辺りの音を全て持ち去られたかのような静けさ。
無音が、耳につく。
煩わしいまでの沈黙が、纏わりつく。
大下は、その音を振り切るように首を振ると椅子にどっかりと腰を下ろした。
規則正しい音が、…する。
静かに、けれど響くようなその音に、思わず手を伸ばしてハッとした。
「何、してんだ…オレは」
自嘲するように呟くと、胸元から煙草を取り出す。
ZIPPOの開く音が、響いた。
カシャンと鳴る音に、白い身体がピクリと動く。
一瞬の動き。
微動とも言えるその彼女の動きが、大下の全ての動作を制止する。
瞼が薄く震える。
唇から漏れる微かな吐息。
甘い香りが鼻腔をついて、離れなかった。
無意識に椅子から腰を上げた。
鈍い金属音が聞こえた。
けれど、大下はそんな音に目をくれる事も無く、
目の前で上下する肩に流れる髪を、一房掬い上げた。
しっとりとした艶やかな髪。
絡みつくようなその髪を、自分の指にクルクルと巻いた。
「ぅん…」
不意に、苦しそうな声が彼女の口から零れ落ちる。
絡めていた髪を、無意識の内に自分の元へと手繰り寄せていたらしい。
薄い痛みを嫌がるように、彼女は一つ身じろいだ。
大下はそんな彼女の声が聞きたくて、今度は意識的に髪を引っ張った。
クッと強く引けば、嫌がるように彼女の身体が揺れる。
漏れる吐息、苦しげな声。
全てが甘く、…そして痺れるように脳裏に響く。
「…ヤ、だ」
不意に、彼女の口から非難めいた声が響く。
ふと見れば、苦しそうに眉根を寄せた顔。
白い顔に浮かぶ紅は、とても苦しそうに歪んでいた。
ハッとして、指に絡めた髪を解く。
あまりにも情けない衝動に、思わず小さく笑った。
チクリと刺さる、小さな棘。
抜いても抜ききれない程に深く刺さった棘が、
徐々に傷口を広げていくように、大下の心を揺さぶった。
「何を…してんだ、オレは」
嘲る声。
その声に力は無く、ただ…無音の闇に深く沈んでいく。
広げられた傷が、自分でも抑えきれない程に体を縛る。
まるで、そう…己を縛る枷のように。
零れ落ちる理性を押し留めるように紫煙を吸い込むと、
目の前に眠る彼女の瞳に一つ、キスを落とした。
自分を縛る茨の枷を抑えこむ為に…。
終。