落ちていく闇。
融けていく感情。
咽るような甘い香りに、
踏み躙りたくなるような嫌悪感。
目の前に広がるのは、ただ風のように撫でていく………発狂の想い。
…それだけだ。
『月蝕』
通り過ぎる風が、不意に胸の中を掻き乱す。
小さく疼く胸の傷が、ただ責め立てるように軋んだ。
見上げれば微かな光。
街の灯りに隠され、目立たない地味な色。
それが何故だか無性に腹立たしくて。
鷹山は、手にした煙草をクシャリと握り潰した。
許されようなんて思っていない。
それが、どれ程に苦しいコトであっても…
今更、諦める事など出来なかった。
けれど、時折…不意に、顔を擡げるように。
キリキリと胸を締め付けるような痛みが、身体中を駆け巡る。
焦燥感に似た、諦めの色。
けれど、諦めと言いながら…白い腕を攫もうともがく。
それが、どうにも可笑しくて…自分を静かに嘲笑した。
冗談で隠しながら、本音を告げる。
それが、あまりに情けなく、口にした言葉が自分を切りつけた。
鈍い痛みと、嫌悪を感じながら、
それでも目の前の痺れるような甘さに抗う事が出来ない。
パラパラと屑となった煙草が指先から零れ落ちる。
足元に散らばったソレを、無機質な瞳でジッと見つめた。
「タカ〜?」
不意に、間の抜けたような声が響く。
いつまでも戻ってこない鷹山に痺れを切らしたのか、
不貞腐れたような顔の大下の近づいてくる姿が見えた。
「どうしたんだよ?」
「別に〜、遅いから迎えに来てやっただけ」
静かに問う声に、どこか茶化したような声が答える。
相棒の様子に小さく笑えば、そんな鷹山の様子を気に留める事も無く、
大下はすぐ側にしゃがみ込むと、空を見上げながら煙草に火を点けた。
「何かあったか?」
突然の大下の行動に鷹山は訝しげに問えば、
その言葉に答える事無く、スッと空を指差した。
それにつられるように空を見上げれば。
真上にあるのは、消えてゆく月。
赤黒く、欠けていく月が…ただ一つ。
闇に静かに紛れていく。
「今日さ、月蝕だって…知ってた?」
ニヤリと笑って告げる声に、小さく首を振った。
勝ち誇ったような笑み。
その笑みに、困ったように苦笑した。
「朝から騒いでたんだよ。ホント喧しいくらいにさ」
顔は、不満そうに眉を顰めているけれど、
そう告げる声は、愛しい感情に満ちたもので。
鷹山は、煙草に火を点ける事もせずに、手の中で弄ぶ。
徐々に消えていく月の姿。
白い冴え冴えとした、凍てつく月が。
赤黒い、歪んだものへと変わっていく。
まるで、自分の中に眠る醜い感情のようで、
鷹山は、赤黒い月が自分の顔のように、歪んで見えた。
「さってと、そろそろ時間じゃねぇの?」
ゆっくりと立ち上がる相棒の姿。
「デートの時間でしょ、タカの大好きなあいつらとさ」
そう言うと、大下は時計を指差した。
見れば、大切な取引の時間が迫っている。
鷹山は小さく息を吐き出すと、手にした煙草を口に銜えた。
そんな相棒の様子に気づいたのか、大下はそっと火を差し出した。
煙草の燃える匂いが、鼻につく。
いつもと同じモノの筈なのに、苦さが口に広がった。
静かに、肺に紫煙を送る。
ゆっくりと吸い込んだけれど、どこか煙たく…思わず、咽そうになる。
詰まる胸を押さえながら、空に向かって紫煙を吐き出した。
ゆらゆらと昇る煙が、赤黒い月を滲ませていく。
歪んだ顔が、更に歪み、…姿を消していく。
「タカ?」
不意に耳に届く、相棒の訝しげな声。
鷹山はそんな声に小さく笑うと、
「何でもねぇよ」
と告げ、足を前に出した。
頭の上では、歪んだ月が…元の姿に戻ろうとしていた。
終。