Subject

□『鏡』
1ページ/2ページ


―――割れる。

薄い氷が割れるように、
冷たい音を立てながら―――。



『鏡』



傾けたグラスに、最後の一滴が零れ落ちる。
空のグラスを起こせば、カランと氷が一つ、鳴いた。

互いに口を開く事は無かった。
ぽつりぽつりと客はいるものの、他の誰も彼らを気にする様子は無く、
薄暗い店内の灯りが、ともすれば眠りを誘うかのように辺りに横たわっていた。

溶けた氷から滴が落ちる。
見れば、カウンターには自分の顔を映し出す水鏡が出来ていた。
いつもならば、水鏡など出来る前に白髪のマスターが拭き取るというのに、
二人のただならぬ様子に、いつの間にかその姿は遙か遠くに見えていた。



何も言葉は思いつかなかった。
いや、かける言葉など初めから無かったのかも知れない。

ただ、並んでグラスを傾ける。
それだけで良かったのかも知れない。

水鏡に映る顔は、情けないほどに歪んでいる。
眉を寄せ、唇は固く結ばれ、一言も発しない。
そんな顔を見ていたくなくて、目の前のソレを

真っ二つに、切り裂いた。

冷やりとした感触が、指から伝わる。
溶けた水の冷たさの筈なのに、まるで切られたかのように
鋭い痛みが、指先を襲った。
二つに割れた水鏡が、歪んだ顔を捻じ曲げた。





不意に、カタンと音を立てて隣の男が立ち上がった。
掛けていたコートを手に取ると、何も言わずに外へと歩き出していった。

灰皿の中には、吸いかけの煙草が一つ。
まだ微かに、香のように匂いを発しながら、紫煙を燻らせていた。

手にしたグラスの中の水を飲み干すと、
打ち付けるような激しさでグラスを置いた。



水鏡は、粉々に砕け散った…。



終。
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ