Lollipop candy

□この手を離さない
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【Otoya】

 

 『永遠』など、本当にあるのだろうか。
 少なくとも生命に『永遠』はない。肉体は時と共に老い、衰え、そしていつかは朽ち果てる。しかし何もかもその通りかと言われれば、断定などできないだろう。
 ないかもしれない。けれどともすれば、あるかもしれない。
 しかながら『ない』と決め付けてしまったら話は別だ。ないと思えばあるものもなくなってしまう。逆に考えれば、あると信じている限りその可能性が消えることはない。
 要するに、大切なのは希望を持つこと。諦めは何も生み出さない。
 そのことにもっと早く気付けていたなら、彼の涙を見ずに済んだのだろうか。







「はぁ……」

 恋人に別れを告げられ部屋を追い出された音也は、覚束ない足取りですぐ隣の自室へと戻った。茫然自失としたまま、リビングのソファへ座り込む。
 一体己の身にどんな事態が起こったのか、現状を音也はまだ把握しかねていた。
 トキヤが怒っていた、泣いていた。恋人ではないと、顔も見たくないと言われた。そのことはわかるのに、そうなるに至った経緯、彼が突然感情を乱した理由が、わからなかった。わからないというよりは混乱していたのかもしれない。何よりまず、頭を整理しなければならなかった。

(抱きしめたら急に…様子が……)

 彼の行動を振り返り、言葉を反芻してみる。答えはそこにありそうな気がした。いや、あるのだ。

『他の女性と寝ておいて……よくもぬけぬけと…私を一体何だと?都合のいい従順な奴隷だとでも?馬鹿にするのも大概にしたらどうです!』

(…そっか……)

 落ち着いてゆっくりと噛みしめてみれば、彼の言動は実に明確だった。昨晩音也がトキヤ以外の、それも女性と寝たことを咎めていたのだ。おそらく抱きしめた瞬間、何かしらの要素によって、彼はそれに気が付いたのだろう。

(もしかして、匂い?)

 そういえば昨日の女性は少し香水の匂いが強かったかもしれない。自分の肩口にそっと顔を寄せてみると、案の定そこには仄かにラベンダーの香りが残っていた。
 しかし、だ。
 そもそもどうして咎められなければいけないのだろう。
 恋人以外の人間と肉体関係を持つことを、世間では『浮気』という。そして大半の人は『浮気』を悪と考えているらしい。それは知っている。知ってはいるが、音也には一般的なその認識が理解できなかった。
 恋や愛、あるいは肉体的な繋がりだけだとしても――相手は多いに越したことはないと思っていた。恋人と呼べる相手はトキヤが初めてだったが、昔から漠然とそう考えていた。
 たった一人の人間と生涯共にあることなど、不可能ではないのか?永遠がありえないのならば、いずれ離れる時が来るのだ。もしそうなってしまったら、自分はどうなる?

(独りぼっちは、いやだ)

 孤独は、音也が何より恐れるものだった。
 施設育ちの孤児という境遇のために、幼い頃から人よりたくさんの出会い、そして別れを経験してきた。兄弟のように思っていた友人も、母のように慕っていた先生も。大好きだった彼らは皆、自分の元を去っていった。ずっと一緒だと、独りにしないと言いながら、それでもいなくなった。今ではもう彼らがどこで何をしているのさえわからない。
 別れは悲しい。寂しい。だから――胸を抉る痛みから己を守る術として、音也はできるだけ多くの人間と関係を持つことを選んだ。一つ一つの別れが痛手にならないように、誰かを失ってもまた別の誰かがそばに居てくれるように。
 そしてそれは至極当たり前で、世間がなんと言おうとて決して悪いことではないのだと――そう、思っていた。





「トキヤと話、しなきゃ…」

 俯いていた顔を上げ、音也は誰にともなく呟いた。
 現状を把握した今、自分がするべきはトキヤの誤解を解くことだと思ったのだ。悪気はなかったと、トキヤのことを心から愛していて、大切なのだと伝えたかった。そうすればもう彼が自分の手を離すことはないだろうと考えた。
 しかし再び訪れた恋人の部屋で、音也は己の浅はかさを思い知ることになる。





 鍵は掛かっていなかった。一応インターフォンは鳴らしたのだが案の定返事がなかったので、そのままドアを開け中に足を踏み入れる。
 トキヤはリビングにいた。部屋の隅で背中を丸め、膝を抱えていた。

「トキヤ」

 直接呼びかけてみるが返事はない。そばへ寄って肩を揺すると、彼はようやく顔を上げた。

「…何の用ですか。顔も見たくないと言ったはずですが」

 泣き腫らしていて赤い、けれど冷ややかな目がこちらを見上げた。

「うん。でもトキヤとちゃんと話、したくて」
「言い訳ですか?いいですよ…今更何を言われても、惨めになるだけなので」

 瞳と同様冷たい声で言うと、ふいと顔を背けてしまう。

「そうじゃなくてっ」

 音也は取り付く島もない様子のトキヤの頬を両手で挟み、半ば無理やりに自分へと向かせた。彼はその瞬間驚いて目を瞠っていたが、抵抗はしなかった。

「俺は、トキヤのことが好きだよ」

 初めて想いを告白したときと同じように、誠意をこめて言葉を紡ぐ。しかし彼はニヒルな微笑を浮かべて言った。

「あなたが好きなのは私だけではないでしょう?」
「それは…確かに、他の人としちゃったのは認めるよ。嘘はつきたくないし。でも悪気はなかったんだ。トキヤを泣かせたくなんかなかったよ」
「悪気はなかった?何なんですかそれは。ふざけているんですか?」
「だから違うんだって。俺はただ…トキヤと離れるのが怖かっただけ」
「は?ますますわけがわかりません」

 要領を得ない言葉に、トキヤは呆れ返っているようだった。このままでは誤解が深まるばかりだと思い、音也は自分の胸の内を洗いざらいトキヤへ話して聞かせた。
 人間同士の絆など儚いものだと感じたこと。孤独への恐怖、不安、そして別れの悲しみ。そうした感情から身を守るために、複数の人間と関係を持っていたこと。トキヤ以外の相手にはさほど執着も思い入れもないこと。
 これまで溜め込んできたものを何もかもさらけ出してしまうと、いくらか心が軽くなる気がした。そんな音也に対し、トキヤの顔からは話せば話すほど表情が消えていった。

「つまりあなたは…最初から誰とも本気で向き合う気がないのですね」
「え…?」

 ポツリと呟かれた言葉は、耳を疑うようなものだった。

「どういうこと?」
「永遠に一緒になどいられない、そんな風に最初から諦めているのでしょう?諦めているからこそ相手を手放さないための努力をしない。かわりにいつ誰に振られてもいいように『保険』をかけている。違いますか?」
「!!」
「それが本当に誠実と言えますか?初めから別れることを考えているような人と、誰が恋人になどなりたいと思うのです」

 衝撃のあまり絶句している音也へ、畳み掛けるようにトキヤは続けた。

「あなたに悪意がなかったのはわかりました。けれど…やはり私はあなたと一緒にはいられない。あなたは、何もわかっていないんですよ」
「そ…んな、トキヤ、俺……」

 トキヤが、頬に宛がわれた音也の手をそっと剥がす。そこから人形のような無表情は消え、今度は酷く悲しげな、それでいて憐れむような色をたたえていた。

「改めて言います…もう別れましょう、音也」

 そして告げられたのは、その日二度目となる、別れの言葉だった。




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