Lollipop candy
□この手を離さない
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【Tokiya】
「…はぁ……」
その日のトキヤは、生きているのが不思議なほどの様相で家路についていた。
項垂れた頭、うちひしがれた背中。アイドルのオーラはおろか、生気すらない後ろ姿。
ストレス、つまり精神的な要因が体調へ影響を及ぼすように、肉体的な疲労が精神へ支障をきたすこともある。トキヤの状態は正にそれだった。
この二週間というもの、ろくに休息がとれず睡眠時間さえ削る日々が続いていた。スケジュールが立て込んでおり、仕事以外では恋人の音也とも会っていない。
長い芸能生活の中で仕事と体調の間にある程度の融通はきくようになっていたし、そもそもトキヤはこの仕事を心から愛している。それでもやはり、限界を越えて己を酷使し続けるのは辛かった。
そうして、いつしか溜まりに溜まっていた疲れ。それらが仕事を終え気を緩めたトキヤへ一気にのし掛かり、精神に異常をもたらしていた。
気力という気力が削がれてしまい、何故か無性に悲しみばかりが押し寄せてくる。ふとした瞬間、涙まで出そうになった。
(早く帰って寝なければ……)
一応、トキヤにも自分が危険な状態だという自覚はあった。だからこそ鉛のように重い体へ鞭打って、のろのろと歩みを進める。タクシーから部屋まで、優に普段より五分は長くかかったが何とか無事辿り着いた。
部屋に入り上着を脱ぐと、崩れるようにソファへ倒れ込む。誘惑に負けて目を閉じれば、そのままシャワーも浴びずに眠ってしまった。
今日は金曜日。明日は二週間ぶりの終日オフであり、音也もやって来るだろう。
そんなことに気を回す余裕などなく、トキヤは身体が求めるまま深い深い眠りについたのだった。
「トキヤ?…トキヤ、大丈夫?」
肩を揺すられ、トキヤは泥のような眠りから目を覚ます。
ゆっくりと、まるで壊れたマリオネットのような動きで顔を上げると、そこには心配げに眉を顰める音也の顔があった。
「音也…おはよう、ございます……」
絞り出した声は現役アイドルとは思えないほど醜く嗄れていて、思わず呆れる。寝起きということを考慮したとしてもそれは酷いものだった。
「トキヤ!一体どうしたの?忙しいのは知ってたけど、こんなとこで寝るなんて……しかもその声…」
改めてトキヤの異変に気付いたらしい音也は、眉間の皺を更に深めた。背中に手を添えてトキヤの身体を起こすと、じっと顔を覗き込む。
心配されているのだろう。あからさまに疲弊した様子を見せてしまったのだから無理もないと思う。逆の立場ならばきっとトキヤも同じ心境だったはずだ。
「トキヤはもう…すぐ無理するんだから。駄目だよ、自分の身体は大事にしなきゃ」
「すみません……」
年下の音也にもっともな理由で叱られてしまう。そんな自分が滑稽で、可笑しかった。小さく謝りながら微笑む。
正直、一晩眠ったところで完全に体力は回復していない。蓄積した疲労は未だに残っている。
そんな、心も身体も磨り減った時にそれでも笑えたのは、恋人の優しさに触れたから。弱っているときの温かさは特に身に沁みるというが、それが愛しい人のものならばいっそうその喜びは大きい。
「音也、あの……」
嬉しさのあまり涙が零れそうになる。それを隠すように俯けば、音也の腕がそっとトキヤを引き寄せた。ぎゅっと抱きしめられ、互いの身体が密着する。その瞬間――トキヤは息を呑んだ。
「っ!」
音也の胸に埋もれた途端、鼻腔を刺激した知らない香り。それは恋人の裏切りの証に他ならなくて。
今日が土曜であったのだということに、初めてトキヤは思い至った。きつい香水の匂いを吸い込んでようやく、己が置かれた状況に気付いたのだ。
「……ッ!」
咄嗟に音也を突き飛ばした。さほど体力などないはずだというのに、思いの外強い力がかかる。その衝撃で床に尻餅をついた音也の顔には、何が起こったのかわからないと、はっきりそう書いてあった。
(そう……だったのか…)
たった今わかったことだが、これまでの彼の仕打ちは故意によるものではなかった。浮気相手の匂いを纏ったままトキヤを抱く、それは無意識行われていたことだったのだ。
音也は平気で、浮気ができる。罪悪感を覚えることもなく、恋人を裏切ることができる。そういう男だったのだ。そして自分もまた彼にとって、その程度の存在でしかなかったということだろう。
それを知った瞬間の衝撃といったら――今すぐに自分が気を失わないのが不思議だった。これまでどこか避け続け、目を逸らしてきた現実を目の前に突きつけられ、眩暈がした。
だがそれ以上に哀しいのは、裏切られている事実そのもの。どれだけ一途に待ち続けても自分の想いが報われないこと。
感情を殺して、耐え続けていた。激しい情が死んでしまいやるせなさしかなくなってしまっても、それでも耐え続けた――それなのに!
「トキ、ヤ……」
「……ふ、ふざけないでください…」
声が、握りしめた拳が小刻みに震える。
弱っていた心を優しさで癒されたかと思えば、次の瞬間には浮気の名残を突きつけられ哀しみに襲われる。天高い場所にある楽園から、奈落の底へと落とされる苦痛だった。一度は救われかけた心が、再びずたずたに引き裂かれてしまう。
弱った時には、人の優しさが骨身に染み渡るのと同じように、人から与えられる哀しみや苦しみもまた強く影響する。
長い間張りつめていた糸が、ここに来て完全に切れてしまった。頭の中が白く霞んで何も考えられなくなる。身体中、どこもかしこも燃えるように熱い。
「私が今まで何も知らなかったと思っているんですか……私が、どんな想いであなたを……」
「トキヤ……」
視界が滲んでいた。トキヤは自分が泣いていることにも気付かぬまま、ひたすら喚き散らした。
「他の女性と寝ておいて……よくもぬけぬけと…私を一体何だと?都合のいい従順な奴隷だとでも?馬鹿にするのも大概にしたらどうです!」
「トキヤ……俺……」
「出て行ってください!あなたなどもう恋人ではありません!顔も見たくないっ」
「……っ……!」
音也はゆっくりと立ち上がると、唇を引き結んでトキヤを見つめた。しかししばらくそうしていたかと思うと、何も言わず――弁解も釈明もしないまま、部屋を出ていった。
「…っう、う、うぅっ……」
独りになったリビングの中、不恰好なマリオネットは冷たい床に崩れ落ちて泣いた。
「わ、たしは……っ……」
癇癪が過ぎ去った後、トキヤを満たしたのは絶望だった。大切な恋人との絆を、自らの手で断ち切ってしまったという絶望だけだ。
音也のことが、好きだった。どれだけ裏切られても、彼を嫌いになることなどできはしなかった。今でもまだ――彼が愛しい。
それでも戻れない。痛みはあれど幸せだったあの『日常』は、もう二度返ってくることはない。明るい笑顔にも、甘いくちづけにも、音也の全てに別れを告げてしまったのだから。
泣き疲れ、涙が涸れるまでトキヤは泣いた。一時間にも満たない時間で、一生分の涙を流した気がした。