Lollipop candy

□この手を離さない
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【Tokiya】



 『日常』は、いつの間にか形作られている。
 それと気付かず行なっていることを何度も繰り返す――即ち、無自覚の積み重ねによって、ある一定の行動が習慣化する。そうして知らぬ間に習慣化した行動の集合体が、『日常』として、生活の中に位置付けられるのだ。
 ならばこれも『日常』なのだろうか?気が付けばいつしか、癖のように身体へ染みついてしまった、彼の戯れも。それを黙って受け止める枯れきった己の心も。
 だとすれば、一体いつまでこんな不毛な『日常』を送り続ければ良いのだろう。どれだけ胸の痛みに耐えれば、この想いは報われる?







 それは土曜の朝。
 インターフォンの後、ガチャリと扉が開く。靴を脱ぎ捨て、短い廊下を掛けてくる足音が聞こえる。

「おはよ、トキヤ」

 背中から、長い腕がぎゅっと己の身体を抱きしめた。噎せかえるような香りと共に、甘い声が囁く。
 お決まりの挨拶に、トキヤは作業の手を止めぬまま静かに応えた。

「おはようございます。相変わらず、インターフォンの意味がありませんね」

 水で洗った新鮮なレタスを、小さくちぎって皿に盛り付けていく。後ろから抱きつかれているせいで多少やりづらくはあったが、毎度のことなのでさほど苦労はしない。皿にはみるみるうちに若葉色が広がっていった。

「だって、どうせ合鍵持ってるし。トキヤだっていちいち出迎えるの面倒だろ?」
「…確かにそうですね」
「だろ?…ふふっ。やっぱいいなー、トキヤが料理してる姿って」

 不法侵入に等しい形で部屋に押し入ってきた男は、そう言って悪びれる様子もなく笑った。抱き締めた腕はそのままに、トキヤの肩へ自分の顎を乗せながらのんびりと調理台を眺める。
 そこでは、レタスで埋まった皿の上に真っ赤なトマトが並べられている。更にチーズとキュウリが添えられ、色鮮やかなサラダが完成した。
 サラダの横には既に出来上がっていたフレンチトースト。それらはトキヤと不法侵入の恋人――音也、二人分の朝食だった。

「さあ、できましたよ。もう離してください」

 纏わりつく腕を軽く払いのけながら、トキヤはサラダの入った器を手に取り身体の方向を変える。音也は名残惜しげな表情でトキヤを見つめていたものの、諦めてトーストをテーブルへ運んでくれた。

「おいしそうだなー。ね、食べていい?」
「はぁ…どうぞ」

 つい先程まで恋人と離れるのを嫌がっていたというのに、次の瞬間には食欲が勝っている。目の前の男の現金さに少々呆れつつも、今更指摘はせずに食卓についた。

「よしっ、いただきます!」

 促すや否や、威勢の良い掛け声が飛んでくる。朝から何とも――良く言えば活発、悪く言えば、煩い男だ。
 しかしそれも、トキヤにとっては慣れたものだった。
 音也と共に朝食を摂るのは、今に始まったことではない。同じ部屋で生活していた学生時代はほぼ毎日そうであったし、事務所寮で独立した部屋を与えられた今も、週に一度――土曜の朝は必ず食事を共にしていた。
 とはいえ、そうしようと二人で示し合わせたわけではない。ただいつの間にか、そうなっていた。
 毎週土曜の早朝、音也はトキヤの部屋を訪れ、トキヤは朝食の支度をしながら音也の訪問を待っている。
 それが無意識のうちに作り上げられた、二人の日常だった。

(ただ彼がここに来て、ただ私がそれを待つ…それだけだったなら、どんなに良かったか)

 トキヤは、幸せそうな顔でトーストを頬張る恋人へ視線を遣りながら、密かにため息をつく。
 彼と一緒に朝食のテーブルを囲むという『日常』、そこに隠れたもう一つの厄介な習慣のためだ。

(今朝のあれは…随分とまた、自己主張の強い香りでしたね)

 おはようのハグと同時に、己を包み込んだ香水の匂いを思い返し、トキヤの胸には言葉にし難い不快さが湧き上がってきた。
 強い柑橘系の香水だった。確実に音也のものではない。彼はいつももっと爽やかで、かつ控えめな香りを纏っていた。あの香水は、明らかに女性のものだ。
 つまりそれは、彼が昨晩誰かと身体の匂いが移るような行為に勤しんだという動かぬ証であるわけで。早く言えば、音也は浮気をしていたのだ。
 彼に女がいると最初に気付いたのはいつのことだったか。
 音也が朝食を食べに来るようになったばかりの頃、彼の身体から微かな知らない匂いを嗅いだ。それからほぼ毎週のように、音也は様々な香りを纏ってトキヤの元を訪れるようになった。香水、ヘアスプレーや石鹸あるいは口紅。毎度何かしら残っている移り香に、いつしか小さな疑惑は確信へと変わっていった。
 不貞を働くのは毎週金曜、仕事終わりが多いこと。その相手は毎回違っていて、同じ女とはあまり寝ないこと。月日が経ち、浮気の回数を重ねられるうちに、トキヤはそんな法則まで見出だした。
 そして今では、音也は女を抱いた後に必ずトキヤの元を訪れ朝食を共にするようになっていた。
 穏やかな『日常』の下に潜む秘密。それは、『日常』化した恋人の浮気だった。





「ごちそうさまでした」

 音也よりも一足先に食事を終えたトキヤは、使用済みの食器を手に流し台へと向かった。大きめのボウルを棚から出し、水を注ぐ。そこへ食器を浸していると、「ごちそうさま」という音也の声が聞こえてきた。
 彼はいつ何を作っても、おいしいと言って出されたものを完食した。食べるという行為そのものももちろん好きなのたが、それ以上に、誰かが手間暇かけて作ってくれたものを口に入れられることが嬉しくてたまらないのだという。そのため二人で食事をする際にあまり外食は利用しない。大半がトキヤの手料理だった。
 音也がそこまで手料理に憧れを持つ理由は、どうやら彼の境遇にあるらしい。施設という、一般的な家庭とは程遠い環境の中で育ってきた彼は、いわゆる『家庭の味』を知らなかった。誰かが自分のために料理を作ってくれる、そういった多くの人間が当たり前のように受けている愛情に飢えていた。以前音也がそう語っていたのだ。

「トキヤ」

 音也の気配が間近に迫る。数十分前にもそうしたようにトキヤをふわりと後ろから抱きしめ、鼻先で髪を掻き分ける。

「んっ……」
「トキヤ。片付け、後にしない?」

 囁きと共に耳朶を音也の唇に挟まれ、反射的にトキヤの身体は震える。
 片付けを後回しにして彼が望んでいること――そんなことはもう、言葉にされずとも身体が知っている。それも二人の間で繰り返されてきた行為、つまり、『日常』なのだ

「…わかりました」

 食器を洗う手を止め、トキヤはそろそろと振り返る。背後の音也と視線が絡んだ途端、肩を掴まれ噛みつくようなキスをされた。重ねた唇の間から、分厚い舌が忍び込んでトキヤの口内を犯す。頭を抱え込まれ、根元から舌を絡めとられる。

「んんっ…っはぁ……」

 襲いかかるように獰猛なくちづけから解放されると、腰を抱かれリビングへと連れ出された。

「…トキヤ」

 息を弾ませながら、音也は慣れた手付きでトキヤをソファへ押し倒す。
 欲情を宿した瞳がまっすぐにトキヤを見つめたかと思うと、間を置かずに再びキスが降ってきた。

「…んぅ……んっ……」

 何度も何度も執拗に、濡れた唇が押しあてられては離れ、また押しあてられる。首筋の柔らかい皮膚はきつく吸われた。少しざらついた唇の感触が、肌の引きつる微かな痛みが愛しい。
 繰り返すキスの合間、急いた手付きで音也は服を剥がしていく。そして現れた白い肌に、熱っぽいため息を吐いた。

「はぁ…トキヤ……もう、いいよね。ベッドまで…待てない……!」
「…は、い……」

 すっかり余裕を失った音也の言葉に頷き、トキヤは目を閉じた。何もかもを彼に任せ、身を委ねる。
 拒む意思はなかった。彼の手も、唇も、火傷しそうなほどの熱さも、心地よかった。彼に触れられるたび、身体は熱を帯びた。
 けれど――心はどこか、風穴が空いたように冷えきっていた。
 今、音也がトキヤを愛撫するその手は、ほんの数時間前に他の誰かを愛した手。愛しげに名前を呼び、激しく口づけるその唇も、トキヤの知らない誰かに触れ、名を呼んでいたのだろう。のしかかってくる彼の肌は、トキヤではない誰かの体温を知っている。
 浮気相手を抱いたその身体で、彼が自分を抱く――そう思うと、トキヤの胸は凪いだ。
 音也は土曜の朝――つまり、浮気の翌朝――朝食を共にするためにトキヤの元を訪れ、時間さえ許せば必ずトキヤを抱いた。音也がどんなことを思ってそうするのか、考えたことはない。そもそもこれが意図的な行為であるのかどうかもわからない。嫉妬や悔しさ、怒りといった激情さえ、トキヤは覚えていなかった。彼の不貞に気付いた当初はそうした感情に心を燃やしていたけれど、じっと耐えているうちにそれらは次第に薄れていったのだ。そして代わりに訪れたのは、ひたすら哀しい、やるせないという気持ちだけ。
 疲れてしまったのだ。名も顔も知らぬ相手を憎むことに。浮気な恋人を恨むことにも。そうして心を痛めることに。
 トキヤが耐えれば良いだけのことだ。何も気付かぬふりをして、音也の求めに応じればいい。そうすれば、彼がトキヤの手を離すことはない。浮気するななどと喚き散らして彼に嫌われたくなかった。一途に待っていれば彼はいつか――トキヤの元へ帰ってきてくれる。これはきっと一時の気まぐれ。そう信じ、割り切った。
 恋人の浮気を止めることも、嫉妬に身を焦がすことも。仕方がないのだからと、割り切った。
 だから寒々とした心のまま、けれど快楽に蕩けて熱くなっていく身体で、トキヤは愛しい恋人を受け入れる。






「トキヤ…もう眠い?」

 抱き合った後の甘い時間。半ば微睡みながら、トキヤは恋人の声を聞く。

「えぇ…少し、眠らせてください」
「わかった。今日は俺もオフだから、トキヤにくっついてるね。…おやすみ」

 閉じた瞼に落とされる優しい口づけ。身体をすっぽりと包み込む体温。
 残酷な裏切りからは想像もできない温かさの中で、トキヤは眠りへ落ちていった。




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