dream
□二人美容室
1ページ/1ページ
「何だ、これは」
「えっ」
朝からデスクに齧り付いて売り上げを計算していた私に不機嫌そうに訊ねたのは店長の一条だった。目の前の数字を急いで確認し直す。どこから間違えていたのか、何かが抜けていたのか、疲れている頭ではすぐに発見できない…血眼で書面とにらめっこしていると、いきなりこつんと頭を殴られた。
「そのことを言ってるんじゃない」
その言葉にはあ…と深くため息をついてボールペンを投げ出す。てっきり売り上げのことだと思ってものすごく焦って、そうじゃないことにほっとしたと同時に気が抜けた。
「ああもう、じゃあ何なのよ邪魔」
「…店長だぞ、お前より上だ」
「いいじゃないのそんな変わらないじゃないの」
私が一条の下で働くようになって2年も経つのにまだ言うなんてちっさい男だ。ぴりっとしなきゃいけないときはちゃんと敬語使うし大体同期だし同い年だし、いいじゃないの。まあ悪いこと言わなかったら砕けた言い方しても注意されないのだけれど。
「で、何なんですかあー?」
口を尖らせてそう聞くと、また頭を殴られた…今度はさっきよりも少し強めだった。痛いと文句言おうと振り向きかけたとき肩のところの髪の毛を掬い上げられたのが分かって思わず体を固くしてしまう。髪の毛にでも、触れられていると思うと何となく緊張してしまったのだ。
「な、何かついてる?」
「…枝毛がある」
まるで私の髪にゴミでもひっついてみっともないとでも言いたいような声だった。枝毛があるっていってもそんな何本もあるわけじゃないはずだし枝毛くらいあるのは不思議じゃないでしょうよ…と、言いたがったが相手は一条だったと思い直す。
「みっともない、綺麗にしておけないなら切れ!伸ばすならしっかりケアしろバカ!」
「じゃあ切る切る、切りますから!うるさい!」
さすが身嗜みに余念の無い店長様ですこと、枝毛の一本にも全力でいらっしゃる。私はため息をついて離せと要求するようにひらひらと手を振った。すぐに言った通りにしないとまたぐちぐち言われるから明日にでもばっさり切りに行こうと思う。
「待て、どこでどのくらい切る気だ」
何でそんなことまで事前に報告せにゃならんのじゃ…という言葉もぐっと飲み込んで、数秒考えた後に発言する。
「行きつけの美容室で、肩につかないくらいまで切ります」
「どこだ行きつけは」
「駅前の、」
「信用できんな」
行きつけだというのが信用できんのかその美容室の腕が信用できんのか、どちらにしろ却下ということは違いない。一条は何やらぶつぶつ言いながら私の髪の毛を掬ったり梳いたりと弄んでいて、それがくすぐったいというかむずがゆいというか気持ちよくって私は一応口はへの字に曲げたままじっとしていた。
「俺が切ってやる」
「はああ?」
予想してなかった展開に思わず一条の方を向くと、もう彼は私に背を向けて部屋を出て行くところだった。そこまでしてもらわなくたって枝毛くらい自分でどうにかするのに一条のこの行動力。どうしようとおたおたしていた私のところにすぐに戻ってきた一条の手には高そうな鋏が握られていて、ああこんなものまで店に常備してるのかとある意味感心してしまった。
「ほら正面向け、動くなよ」
「…はいはい」
どうせもう嫌だとか言ってもやる気なんだから逆らわないことにする。目の前の書類やらをさっさと寄せて体を寛げた。
「シャンプー何使ってるんだ…どうせお前の事だからあんまり気を使ってないんだろ」
「いいじゃない綺麗に洗えてるんだから」
「よくないな。接客業だ、それにお前は女だ。身嗜みには人一倍気を使え。恥ずかしげも無く枝毛なんか晒しやがって…」
「お小言多すぎ!もう一条に頼むのでいいことにするからリクエスト通り肩まで切って!」
「それは似合わん。やってみなくても分かるから諦めろ」
「ああもう!」
「大きな声を出すな、揺れる」
…両手で頭を固定されて嗜めるように耳の近くで囁かれたら、それは大人しくするしかないじゃない。かあっと体温が上がった気がして悔しい。
「何だ、急に大人しくなったな」
「あ、あんたが…」
「ほら、終わった」
今度は右耳の方の髪の毛をかき上げてあからさまに耳元でそう言って、その後ふっと息を吹きかけられた。反応してやるもんかと思ったのと裏腹に体がびくっと震えて「ひっ」と情けない声が漏れてしまった。
「ふん、かわいくなったじゃないか」
「毛先切っただけじゃない、変わらないわよ…」
どうもありがとうと睨みつけたが、余裕綽々な様子でどうもと返されただけだった。それからまた仕事に戻る私にシャンプーがどうとか乾かし方がどうとかまた長々と教えてくださったもんだから、結局うんざりしてはいはいと全部に頷いてしまった。何だかんだ、抵抗してみるものの最終的には一条の言うことにいつも流されている気がする…。
「シャンプーは特にだ、今言ったものを今日にでも買って帰れ」
「もう、分かった分かった!」
「…虫除けにでも、な」
後日、村上君とすれ違ったとき意外そうな顔をされたから何よと聞いてみると、
「…昨晩は店長と…?」
「え?もちろん違うけど、何で?」
どきっとするような勘違いをしないで欲しい。それを態度に出さないようにするのに緊張する。
「いや…同じ匂いがしたような…」
…シャンプー、だ。そう思い当たった私は首をかしげながらフロアのほうへ向かう村上君に手を振って、見えなくなってからため息をついた。
匂い強めのシャンプーだと思った、もしかして一条はそこまで意識して薦めてきたのだろうか…なんて馬鹿みたいな乙女思考を振り払うように頭を掻き毟り、そのまま髪の毛を指に絡めて枝毛の無くなった毛先を何とは無しに眺めた。