dream2

□この世界の限界は10u(アカギ)
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…雨の音がする。


雨の音は聞こえるけれど、雨の冷たさや雨粒が体を叩く強さは覚えていない。湿気の多い空気も、雨が降った時の独特のにおいも忘れた。前にいつ雨が降ったかも、昨日と今日の明確な境目も分からない。自分が目を閉じているのか開いているのかすら。

いつからこんな生活をしていたのかも最近でははっきりしない。数日だったのかもしれないし、何年もそうだった気もする。ただ強く、ここから逃げ出したいとだけ思っている。彼が帰ってくるまで自分の体すら自由に出来ない、彼以外を見ることすら出来ない時間から逃げ出したい。漠然とした怖さが日に日に強まってくるから、私は今日、ここを出ていくことにする。

「……」

…それにしても相変わらず雨の音しかしない、不安の象徴である足音も無い…彼はもうあと数時間は帰ってこないはずだから当たり前だ。彼は「煙草」と言えば五分、「ちょっと出てくる」と言えば最低6時間は戻らないことを私は覚えた。そして今は彼が出て行って多分2時間ほど。第一関門はクリアしている。

次の課題はどうやって拘束を解くか、だ。これも考えてはいるのだけれど。私は身を捩ってどれほど体を動かすことが可能か確認する。縛られているのは手首、足首だけ。それも彼があまり痛くないようにと布で固定したものだ。芋虫の様にじりじりと、隙間風を感じる方へ寄っていく。衣服越しにひやりとした冷たさを感じたので、思惑通り窓辺に来ることが出来たのだと分かった。ここから必要なのは勇気。

私は一呼吸置いた後、曲げた足を思い切り窓があるであろう位置に伸ばしてガラスを蹴破った。と、思ったものの実際には鈍い音がしただけで、ヒビを入れたくらいだとすぐに音と感触で分かった。それから何度か暗闇の中狙いを定めてどうにか穴を開けた。もちろん足はじくじくと痛む。歯を食いしばり、身を捩って次は割れたガラスに背を向ける。距離を測りながらガラスの割れて尖った部分に手首を縛る布を押し当てた。何度も、何度も。

早く、彼が帰ってくる前に。自分の手がどうなっているのか想像しないように必死に奥歯を噛み締めながらただ逃げ出すことだけを考える。ぶつ、と音がしたと思ったら、急に両手が離れた。拘束がついに解かれたのだ。私はもはや感覚の無い指先をどうにか動かして目隠しを取り去った。薄暗い部屋の景色がぼんやりと浮かび上がってくる。止まらない震えに四苦八苦しながら足の自由も取り返して、何度も転げながら玄関に向かった。私が昔履いていた靴は、当然無かった。だって必要無いはずだったから。だから素足のまま押し開けるように久方ぶりの外界へのドアにぶつかって、雨の強いにおいを思い切り吸い込んだ。

目を見開いて前を見据えて、部屋の外は、途方も無く広いのだと気付いて胸が苦しくなった。どこに向かえばいいのか、散々考えたはずなのに何故だか皆目検討がつかなくなる。それでも一歩でもここから遠くに行かなければ、きっと一生彼の元にいなければならない。それは、怖いことなのだ。ずる、ずる、と体を引き摺りアパートの階段を時折踏み外しながら降りていくと呼吸が途方も無く荒くなってきた。正体不明の怖さが思考を埋め尽くして、目の前が霞む。階段を降り切って地面に足がついたのに、逃げ出すための一歩が踏み出せない。ここまできてどうして、何で足が竦んで…。

「そこから先へは、逃げないのか?」

その声はすぐ隣から聞こえた。知らない間に彼がそこにいたのだ。恐る恐る顔を向けると、無表情で煙草の煙を吐き出す彼、アカギさん。丁度帰ってきた様子ではない、足音も無かったのだから。じゃあどうして、こんなところに。

「…ああいう言い方をパターンとして覚えさせておけば、いつかこういうことをすると思ってた」

足元から崩れ落ちる私をアカギさんは何でもなく受け止めて軽々と担ぎ上げた。今はただ彼に怒られることだけに恐怖している。その半面確定した『逃げられなかった』という結果に安堵もしていた。今になってもあの部屋以外の世界で生きていく自分を想像することが出来なかったから。

「予想より時期が遅かったから、やっと諦めたと思ったのにな…散々脅しても、この様か」

淡々とした口調は責めているようにも何にも思っていないようにも感じられるなと今来た短い道のりを戻されながら思った。あんなに重かった扉なのにアカギさんは事も無げに開けて、見慣れた狭い世界にまた閉じ込められる。

「なかなか無茶なことしたな…ほら、」

ガラスの破片と血痕が残る室内を一瞥し、アカギさんは私を水道の前で下ろす。腕を引かれ、容赦無く流水をかけられたものだから、私は思い切り悲鳴を上げた(つもりだったが実際には掠れた吐息が漏れただけだった)。真っ赤に染まる水を見ない様に顔を背けて、「痛い」とそう叫びたかった。

「…そりゃ、こんだけズタズタになってれば痛いだろうな」

我慢しきれず流れた涙はすぐに彼の袖で拭われる。それから慣れた手つきで止血とガラス片の処理が行われ、私は呆然と見ているだけだった。今手も足も痛むのはアカギさんのせいなのに、逃げようとした私を手当てしてくれた上に怖いことをしないでいてくれる彼は優しいと感じ始めている。

「俺は、」

アカギさんは相変わらず表情一つ変えずに私を彼の正面へ座らせた。向かい合うも、俯いたまま顔を上げることは出来そうも無い。

「俺はアンタからこれ以上何を奪えばいい?声も、自由も、時間も、アンタが死にたくならなくて、かつ逃げる気力もなくなるくらいに奪ったつもりだったんだが」

私の声が出ないのは彼のせいだったのを、それを聞いて知った。さっぱりと忘れていたわけだからから、知ったというのもおかしいのかも知れないけど、それを聞いたところで何も心が動かなかった。そうなんだ、と無感動に思った。

「それともいっそ、賭けてみるか?何で決めてもいい。アンタが勝ったら俺は今後アンタに一切関与しない。俺が勝ったら、アンタの腕と足を貰う。二度と逃げられないように」

反射的に首を横に振ったのは、私の脳裏に微かに残ったこの男の記憶のせいだと感じた。この人はきっと、九分九厘私が勝つと思われる勝負でも引っくり返す、そんな予感。胸騒ぎがした。

「…だったら、何が不満なの。どうしたらアンタはここに居続ける選択をする?」


…何が、不満、だったのだろう。逃げてもアテは無いし、したいことも希望も無いのに。ここにいればこの人がご飯をくれる。居場所もくれる。この人が居ない間は確かに暇だけれど、じっとしていれば生きてはいける。怖いことも痛いことも、大人しくしていればないのだ。何が不満だったのだろう。
そこまで考えてから、ふと恐ろしくなった。これが彼の狙いなのでは、と。それはきっと私の精神の内での最後の葛藤だったのだと思う。

「外は怖かっただろ?ここにいれば怖くないようにする。アンタが望めばいくらでも」

アカギさんはそっと私の頬に触れた。冷たい手だった。

「…俺がアンタを縛ってるってことは、同時にアンタも俺を縛ってるんだ。それでもここに閉じ込めておきたい」

その手はするりと私の後頭部を撫で、反対の腕でゆっくりと抱き寄せる。こんな風にされたのは初めてかもしれない。こんな、大事にするみたいに。この人は、私を大事にしたいのだろうか。忘れた。彼と元々どんな関係性だったのかとか、どうやって彼と私が知り合ったのかとか、彼が誰だったのかとか、全部忘れた。

「全部忘れてもいいさ、アンタがそれでここに居やすくなるならね」

今更思い出したいなんて可笑しな話だ。あまりに可笑しいから笑ったら、彼は体を離して私の顔を少し驚いたように見つめた後でまた抱きすくめた。

ここはとても暖かな世界だと思った。

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