ロストマインド

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無事早朝に起きることが出来た私は部屋の中を探りながら身支度を整える。幸いなことに必要な物は容易に見つけることが出来たし、冷蔵庫には朝ごはんになるようなものが充分にあったから空腹も満たすことができた。病院に行くだとか体調不良を理由にもう一日くらいは落ち着く時間を作ることも考えなかった訳ではないが、出来れば過去の自分の意向に沿いたいから多少の無理は承知でスケジュール通り仕事に行ってみることに決める。
不安だらけではあるが全く初めて仕事に行くわけじゃない。記憶の全部が全部跡形も無くなってしまったというより脳の底に沈みこんでしまったようなものだと思うから、上からなぞる様にたどっていけばきっと思い出せる、はず。仕事内容まとめたノート読んだときやけにするすると脳に入ってきたのはその証拠だと思いたいのだが。

「うん、行ってきます」

誰もいない部屋に挨拶をして出る。時間にかなり余裕があるからゆっくり歩いて行こう。職場までの地図を手に握りしめ足を踏み出す私の気持ちは不安で占められているけれど、とにもかくにも前に進むしか無い。
道中コンビニで菓子パン数個を買うという心的ワンクッションをはさみながら比較的楽に職場だと地図に示された場所に辿り着いた。確か私はカジノ勤務だったはずだ、しかし目の前にあるのは欠片も華やかさなど感じさせないただのビル…いや、ノートによればカジノはカジノでももっと如何わしいものだった気がする。ということは人目を誤魔化すためにも一見そうとは分からないようにしているのかも…。

「あれ、■■さんじゃないですか」

いきなり背後から掛けられた声に驚いて数センチほど飛び上がったように思う。振り向く前に一呼吸置いてから覚悟を決める。よし。

「どうしたんです?こんなとこに突っ立って…」

「えっ?あ、あの、ええと…」

振り返る前に横に並ばれ、どもってしまう。落ち着け私、まずは冷静に分析してこの男が誰なのか特定しなければ。私のことを知っているということは私もきっと知っているのだろう。ノートに書いてあった中の誰かで、ここで出会ったということはきっと仕事場の人で…ああ分からない情報が足りない。分かるまで適当に合わせるしかない。

「ほら、行きましょう?」

さっさと歩いていってしまう男に言われるまま素直に頷いて後を着いていく。しかしこれはもしかしてとてもラッキーだったのではないか。メモ帳を凝視しながらふらふら歩き回るよりこの人に着いていった方が怪しまれずに済みそうだ。

「今日は同じ時間からだったんですね、珍しい」

「え?そう、ですね…」

あ、今変な顔をされた。ということは何か態度がおかしかったらしい、この一言で?何がいけなかったのだろう。こんな小さなことでも冷や汗ものだ。会話を続けて原因究明すべきかボロを出さないように会話を避けるべきか。

「何だか今日の■■さん雰囲気違うような…」

迷ってる間にも相手は遠慮なく言葉を続けてくるから緊張はまだ続く。道順や目にした部屋などの位置を覚えたいのに話しながらだとなかなか難しい。とりあえずタイムカードとトイレの場所だけは把握したのだけれど。

「ええと、そんなことないと思いますけど…そうですかね…」

「それですよ、何で敬語なんです?」

しまった、そこだった。初めて会ったから敬語を使ってしまったが、初対面ではないのだった。頭では分かっていてもなかなか順応出来ない…さて、どう言い訳をしたらいいだろう。と考えているこの間さえ相手に疑惑の種を植え付けてしまいそうで焦ってしまう。

「気分転換に、かな…?」

記憶を失う前の私もやはり嘘が苦手だったのだろうか、いや間違いなく得意では無かったはずだ。するりと口から出てきた言い訳に頭を抱えて逃げ出したくなるのを堪えて相手の反応を待つ。男は数度瞬きをして、眉をハの字に曲げて笑った。

「■■さんってたまに変なことしますよね」

元々たまに変なことする自分でよかったとよく分からない感謝をし私もそうかなと愛想笑いをする。とりあえずかわせたようで少しだけほっとしたと同時に毎回会話の度にこんな危ない綱渡りを続けていく自信が無いとも思ってしまう。しかしもう既に挫けそうな心をぽっきり折りに飛んできた来た怒号に身を震わせるのは笑い声の途切れた一瞬後。

「村上!釘チェックはまだか!」

声の方を見ると『店長室』から顔を出し端整な顔を不機嫌そうに歪めた男がいた。声を聞いた覚えがある、ということは彼が店長、イコール一条さん。そして今まで話していた男が村上という名前だと分かるおまけつき…情報量としてプラスだったが状況的には悪くなった気がしないでもない。村上と呼ばれた男はすぐさま返事をして廊下を駆けて行ってしまい、次どう動くべきか思考をフル稼働させて突っ立っている私と怒りオーラを纏った一条さんだけがその場に残されたから。空気に耐えかねてじり、と一歩下がったのがきっかけだった。一条さんは顔をしかめ、大股で一気に距離を詰めてきた。そのまま押されるように近寄られ一、二、三歩下がればあっという間に壁際に追い詰められる。一条さんはだん、と顔の横に腕を突いて私を高圧的に見下ろした。

「挨拶はおろか昨日のことに関して謝りの言葉の一つも無しか」

距離が距離だけに物凄い迫力、怖い。しかし言われてみれば上司との約束を電話口の一言で断って、今も挨拶すら咄嗟に出来なかった私が全面的に悪いのかもしれない。必死に目を逸らしながらおどおどと言葉を紡ぐ。

「お、おはようございます…あの、昨日は本当にすみませんでした…」

相手は絶対私より立場が上なのだから敬語で間違い無いはず。なのに何故だろう、一条さんの機嫌は更に悪くなったような気がする。

「休日なのにお前から呼び出してきて、いざその日になってみりゃ約束の時間を大幅に遅れても電話の一つも寄越さない。やっと繋がったと思ったら断りやがって。体調が悪いってつったから家まで行ってやっても出てこないわずっと携帯の電源も切ってるわ、本当馬鹿にしてるよなぁ?」

こんなにも顔が近いといらない緊張までしてしまう。泣きそうなくらい責められているし怖くて堪らないのに一条さんの長い睫毛が無性に気になる。

「ご、ごめんなさい、本当に体調が悪くて…」

「その上そのわざとらしい態度。何だそれ。しおらしくして見せりゃ俺が遠慮してやるとでも思ったのか?あ?最近いつもそうだよな。俺をイラつかせて楽しいか?どうなんだよ、なあ」

…お手上げです、何を言っても逆効果だと思います。私は一体目の前のこの人とどういう関係だったんですか、どういう態度を取ったら正解なんでしょう。疑問符ばかりが脳内に増殖して冷静になんてなれないし、正直涙を堪えるので精一杯だ。

「…だんまりか…もういい」


言いたいことだけ言って未だ怒ったまま踵を返した一条さんの背が再び店長室に消えるのを見てから深く溜息を吐いた。一条さんがいなくなったことに安心したら滲んできた涙を袖で拭う。はあ、恐ろしかった。半分今の私が身に覚えの無いことでぐちぐち言われていたような。

思えば、きっと現時点での一条さんと私の関係は史上最悪なんだろう。これからどう改善していけばいいのだろう。積み上がるばかりの課題と疑問に頭を抱えて叫びだしたくなってしまう。

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