君が世
□恩
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こつり、こつり、と床に染み入るような音が響く。
石造りの廊下はやはり安土城の木造の軋むような音とは違い、硬質なそれが一歩踏み締める度に己の存在を知らしめた。
忍の性はそれに苦悩し、足は無意識の内に音を消そうと勤めている。
だが頭ではそれを一切気に止めず、拙者は目的の場へと歩を進めた。
目指すは、始まりの場所だ。
「老師、お話が御座いまする」
移り行く偽りの空。
そこに漂う無数の蝋燭が明るく染め上げる空間に落ちた影。
上座の大きなギャマンの明かりとりの前に立つ彼は、己の声にゆっくりと振り向いた。
その目は何処までも深く凪いでいて、果たして彼は幾つ先まで見透しているのだろうか、と拙者はふと考える。
「こんばんは、海鳴。
買い物はどうだったかね?」
にこり、と微笑みかけられ、その笑顔にまずは礼をせねばと思い出した。
「はっ、必要な物は全て揃える事が出来まして御座りまする。
誠に有り難う御座いました」
深く頭を下げれば、彼は「そうか」と嬉しげに頷いた。
「では、
ハリーポッターはどうだったかね?」
まるで、今日の昼げは何だった、と聞くような気軽さで。
だが、その言葉のうちに意味深に込められた裏に気付いた拙者は、ひゅ、と暫し息を詰めた。
それは“英雄"に対する拙者の評価か、はたまた“針井殿"への拙者の感想か、求める答えを拙者に決めさせる辺り、やはり彼は相当喰えない狸な様だ。
「…針井殿は、英雄と謳われるにはあまりに脆く感じました。
彼は、何処にでもいる、普通の、平凡な、只の子供に御座りまする。
ですが。」
瞼の裏に浮かぶ細すぎる身体。
クナイ一つで簡単に殺せるだろうちっぽけな英雄は、しかしあんなにも重い期待を背負わされていた。
途中で切った言葉はしかし続けず、変わりに次を促していた空色の目をまっすぐに見据えた。
「…拙者の國は、戦國乱世。
己が明日を生きるために目の前の命を殺さねばならぬ時代に御座りまする。
その最も汚い仕事の最先端に配属されましたのが、我ら忍に御座ります。
忍は闇に生き全てを裏に隠し込む存在。
拙者のお仕えした先はその時代では珍しい程甘い所に御座いましたが、普通、忍は切り捨てる道具に同じもの。
人として扱われなどしないので御座ります。
拙者の世は、そんな時代に御座りました」
けして辛い事ばかりではなかった。
だが、かくも生きづらい戦乱の世。
しかし思い出すと恋しくなってしまう矛盾した感情を妙に客観的な心で眺めながら、拙者は ふ、と老師に笑いかけた。
「この世界はまこと平和に御座りまする。
背中に突き立てられる刃に怯える事も、
血に慣れた手を冷たい水で責める事もない。」
目を閉じれば、尾張で聞かぬ鳥の声。
あの日、日溜まりで微笑むミネルバ殿を思い出した。
「だから、拙者は御守りしとう御座りまする。この平和を作った、弱く脆い英雄を。
……きっと、誰に促されずとも拙者はそう考えたで御座りまするよ」
に、と悪戯っぽい視線を向ければ、老師はなんの事かのう、とやはり惚けてみせた。
…よくいう。
セブルス殿と買い物に行った時に学術品を買わせなかったのも、針井殿の買い物と時を合わせて人柄を見させたのも、全てはこうする事が目的だった癖に。
それにくつりと笑いを漏らせば、老師も ほっほっほ、と楽しげに笑った。
「ハリーポッターの護衛をする、という事でいいのかの?」
「はい」
簡潔に一言で返せば、老師はただ そうか、と一言頷いた。
それから拙者の頭に手をやると、静かな瞳を己の目と合わせる。
空より薄い氷の色が、だがとても暖かいと思った。
「じゃが、無理だけはせんでおくれ。
約束じゃよ、海鳴」
その目に込められているのは確かな慈しみで。
拙者は返事の変わりに一つ深く頭を垂れた。
借りた恩にはこれだけでは不十分かめしれないが、老師がそれを促すなら己はそれに徹しよう。
いつか、それに見合う働きを果たせればよい。
そう胸のうちで密かに誓って、世界は瞼の裏でまた近いうちに逢うことになるであろう英雄の姿をなぞった。
細すぎるその影には、やはり剣は似合わない、と、薄ら笑った。
(1借りたら3返せ、と教えたのは、
あの日褥の中で微笑む母上)
(2は心からの御礼を、残りの1は恩を売っておけ、と微笑んだのも母上。)
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