短文

□ずれている、ずれていく
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ぱんっ、と。

静かだった空間に乾いた音が響いた。

ノートに向けていた顔を上げ、なまえに目をやる。



今は、放課後。

課題が終わらない俺を待っているなまえはさっきから教室をあちらこちらへとうろうろしていた。

そしたら、急に手をたたいた…ようだ。





「何やってんだ?」

『ねえ、ナツって蚊を叩き潰した事ある?』

「……は?」





そう言ってひらひらと仰ぐ右手の平につぶれた小さな虫の死骸。

赤い血液が、滲んでいた。

さっきの音は蚊を叩いた音のようだ。





「んだよ、急に……」

『ないわけないよね、普通の人ならあるし』





ポケットティッシュを2枚程取り出し、それで手の平を拭う。

誰かの血を吸っていた蚊から溢れた血液がついたそれは、なぜか見ていて嫌悪感を抱いた。





『どうして蚊を殺すのか、理由は簡単だよね』

「………」

『血を吸われたくはないからでしょう?』





……今までも思っていた。

なまえは何処か人とズレた感覚を持っているって。

今も、そうだ。

そんなどうでもいい事でいちいち話をするんだ。


それを聞くのが、いつも俺。





『じゃあ話を進めるね、人はどうして家畜を殺すの?』

「食う為だろ?」

『うん。正解だね。でも、それじゃあ可笑しいと思うんだ』

「何がだよ」

『蚊という生物は動物の血液を吸う事でしかその命を保てないから、血を吸う』





なまえはくるくると丸めたティッシュをゴミ箱に投げる。

それは惜しくもゴミ箱の縁に弾かれて床に落ちた。

少し顔をしかめて、それを手で入れたなまえは唇を舌で湿らせてもう一度話す。





『それは少なからず動物に害を与えているよね』

「まあ、かゆいしな」

『そうそう。でも家畜はどう?』


「え?」

『ナツは豚さんや牛くんに何か嫌な事された?』

「なワケねーだろ。普通に食ってるよ。うまいし」





話が難しい方向に来ている気がする。

そんなに暑くもないのに、首筋に汗が伝った。

課題のノートとなまえの顔を交互に見てから、いつの間にか口内に溜まっていた唾液を飲んだ。





『変だよね、ヒトって。何の罪もない家畜を殺すんだ』

「そりゃあアイツ等は食われる為に育ててるんだ、当たり前じゃねーか」


『そう。食べる為に産まれてきて、おいしくする為に生かされて、食べる為に殺されて…ね』

「っ…そ、そういう言い方、やめろよ」



『どうして?これが現実だよ』





ニッコリと口角を吊り上げて笑ったなまえはメチャクチャ綺麗に見えた。

それでも、どこか恐怖を煽る。





『寧ろ人間が彼等にとっては害なんじゃないかなあ。じゃあ私達は家畜に殺されるべきなの?』

「……やめろ」

『あれ?でもそれじゃあ今度は人間にとっては家畜が害になるね、じゃあやっぱり家畜を殺すのかな』



「……………なまえッ!!!!」





バンッと机に勢いよく手をついて立ち上がった。

勢いをつけすぎて、俺が座っていた椅子が音を立てて後ろ向きに倒れた。

ビックリしたのか、我に帰ったのか、一瞬身体を震わせてから俺を見た。





『あれ…ナツ…?』

「もう、やめろって言ってんだろ…」


『……だめだなあ、私。最近死ぬとか殺すとか、そんなことばっかに興味でちゃう』

「、」





何重にも巻かれた、左手首の包帯。

何度も何度も傷つけて、消えなくなったなまえの、自傷の痕。

何の為にやってるのかなまえにも分からなくて。

何をやってもそれを俺は止められなくて。





『ねえ、ナツ…私、死んでみたい』


「……そんなことしたら、なまえとダチやめっぞ」


『それは…ヤだなあ……』


「ああ。俺もなまえとダチやめんのもなまえが死ぬのもイヤだ。だから、もう、」





こんな事、すんな。

俺がそう言うと、静かに俯いて啜り泣いたなまえを力強く抱きしめた。



“ごめんね、ごめんねナツ”




そう言って何度でもなまえは謝る。

それでも自我じゃ止められない自傷行為。

繰り返しては傷つけて、泣いて。





「俺がいるだろ。もっと、頼ってくれよ」





そして、彼女は傷を増やすのだ。




(好奇心が怖い)

(涙を流す事に慣れ、痛みを忘れた時)

(彼女はまた自らを傷つける)



110507

⇒あとがき

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