大江戸監察事件簿
□大江戸監察事件簿32
2ページ/3ページ
人形は私服に着替え屯所を出ると、目的もなく町をふらついた。時折声をかけられるがその声も意味をなさず流れていく。
やがて橋の上で足を止めると、小川を眺めた。
(仕事だ。これは仕事)
何度も言い聞かせるが、近藤の一言が離れない。このままお見合いが上手くいって結婚した方が近藤を安心させれるのだろうか。自分は、組には必要なくなる人間なのだろうか。
「もし」
考えがどんどんと沈んでいく。
「もしそこの娘」
目の前の景色がゆがむ。
グイッ
勢いよく肩をつかまれ後ろにひかれる。人形はとっさに振り返った。
振り返ったその先には煙管を加え、顔に傷のある女が立っていた。
「あ…すみません」
かなり手ひどく手を振り払ってしまった。相手が同性だったこともあり、人形はとっさに謝った。
「いや、謝るのはこちら側でありんす。わっちの方が不躾であった」
その独特の言葉遣い、いわゆる廓言葉に瞬時にこの女がその界隈出身であることを理解した。確かに、派手な出で立ちだ。左目に走る傷がなければ相当な稼ぎ出となっただろう。
「今にも飛び込みそうな顔をしておったでな。つい強引に声をかけてしまった」
人形はそんなにひどい顔をしていたのかと驚くと同時に、それだけのことで声をかけた女の親切心に癒されるようだった。特に今のような傷だらけの心にはよく沁みる。
「お詫びに何か一杯、コーヒーでも奢らせてください」
人形の申し出に女は静かに首をふる。そんな大したことのない動作からも色気が滲み出る。
「いりんせん。そのようなつもりで声をかけたわけではござりんせん。それに、コーヒーは好かんのじゃ」
立ち去ろうとした女に人形はさらに声をかけた。
「では、違う一杯は?」
親切に声をかえてくれた女にお礼をしたい気持ちは山々だ。しかし、それ以上に人形は女に好印象を抱き始めている。
「そっちの一杯は、ようざんす」
二人ともなって入った夜の居酒屋。
カウンターに並び、酒の力も相まって二人の距離は急速に縮まっていた。
聞けば年齢もごく近く、普段行っている仕事も似ている。大っぴらにはできないような生き方をしてきた境遇までそっくりで、文字通り意気投合を果たした。
「大体男なんぞ自分勝手なもんじゃ。女を動かそうとするくせに、意にそぐわんとすぐ業を煮やす」
「そうそう。男は一生懸命働けば出世街道。女は『女の癖に』と言われる始末」
「わかる。女の癖になんじゃ。その続きを大声で言ってみなんし」
「本当ね!かといって女の武器を使って男に媚び売るような性格でもないからね。どうしろと」
「わかる!あれが可愛いあの人が良いなどとはしゃぐような真っ当な生き方しとりんせん」
そこまで一気にまくしたてるとお互いに自然と顔を見合わせた。気分に合わせて呑んだ日本酒で二人とも同じような顔色をしている。
「わかるよ月詠!」「わかるぞ人形!」
おやっさん熱燗もう2つ追加ー!あいよー!
実に娘らしい二人の笑い声が響く。同性、同年代、同じような境遇。人形は初めて遠慮せず接することのできる心地よさを感じた。そしてそれは相手の女、月詠も同様であった。
「月詠2件目だー!」「おー!」
お互いの肩に回した腕と感じる熱さが気持ちが良い。
高揚した気分のまま、ネオンが輝く市街地へと入る。ここならば多少賑わしいものの、まだまだ店が閉まることはない。
「まだまだ呑むぞー!」「おー!」
「ねぇねぇお姉さんたち、うちの店おいでよ!」
酔っ払いそのものの姿で歩く二人。そこに客引きらしい男が後ろから声をかける。見た目からしてホストクラブのキャッチだろうか。
「今男とかいらないから」
人形は完全に拒絶したが、どうやらこの新人ホストはこの界隈の暗黙のルールをまだ理解していないようである。引き方を知らない。
「そんなこと言わずにさぁ」
男の伸ばした手が人形の肩にふれた。そこからは早かった。
「公務執行妨害でしょっぴくぞクソ野郎」
男の眼前に突き付けれた黒い手帳に男が視線を合わせる。そこに張られた顔写真は今まさに肩をつかんだ女と同じもの。
そしてそこに書かれた文字。
「野暮は去りなんし」
腰を抜かした男に月詠が煙とともに吐き出した。
→