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□菜の花と君
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(もうだいぶ前のことだから、あいつも覚えちゃいないだろうが―――――)

文次郎は目を瞑ると、鮮やかな色彩を脳裏に投影させた。



「菜の花と君」



六年に進級する少し前だった。
年度末の棚卸と委員会の収支報告書の作成に追われていた。
卒業を間近に控えた前会計委員会委員長からの引継も終えていたから、それが委員長としての最初の仕事だった。

い組の部屋で算盤をはじいていると、仙蔵が外から帰ってきた。

「折角春だって言うのに、昼間から部屋に籠もるなんて、文次郎はとんだ貧弱野郎だな!」

仙蔵は戸を開けるなり言い放った。
仙蔵が挑発的な口を叩くのは相手に気を許しているからだ。

「放っといてくれ、明日までの報告書なんだ」

「そんな報告書よりもっと火急の用事があるから早く来い!」
仙蔵は簡単にあしらおうとした俺から筆を取り上げると、そのまま手を引いて外に出た。

「ちょ、待て、仙蔵、急ぎの任務か?武器の用意も何もねぇぜ!」

焦って言ったが、「そんな物はいいから」と腕を掴まれた状態で、学園の門をくぐった。


仕方なしに仙蔵に着いていくと、彼は山里の小川にかかった橋の上で歩みを止めた。

「ほら、見てみろ」

仙蔵は川の土手を指差してぶっきらぼうに言った。

「何かあるか?」

「鈍いお前にはただの黄色、ただの緑、にしか見えんか」

「あ、ああ、花のことか?花が咲いてるな」
ちゃんと見れば、土手の斜面一面に菜の花が咲き乱れていた。

「風流が少しでも分かる伊作か長次を誘う予定だったんだが、貴様が余りにも暇そうにしてたから、連れて来てみれば。やはり失敗だったな」

「暇じゃねぇし」
仙蔵の発言に小さな声で反論した。

「この土手は少し前まで枯れた芦に覆われていたんだ。綺麗だって思わないか?」

仙蔵はそう言うと、橋から土手の草の上に軽やかに飛び降りた。
彼の髪が春風に靡いた。

「どうだ、目立つか?」

仙蔵は、菜の花が群生している辺りまで行って、かがみ、花の上に頭だけひょっこり覗かせ、おどけてみせた。

「ああ、目立ってる!全然隠れてないよ」

五年の制服の紫紺色は菜の花の中では鮮やかすぎた。
菜の花そのものより、花の間で子どもみたいな笑顔を見せた仙蔵が、自分にとっては春そのものだった。

「綺麗だなぁ!」
―――俺はその色彩が忘れられない。

「はは!やっとわかったか。デキル男は花を愛でるだけの余裕があるというものだ」

「そうかもしれないな!」

適当に相槌を打って笑った。

仙蔵はきっと、委員会の仕事に躍起になっていた俺にこの風景を見せたかったのだ……。
春の川の穏やかなせせらぎや、鳥のさえずり、春の香りに心が和んだのは事実だった。








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