恋愛狂騒

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「!!」


背後で響いた抜けるような高い音で、僕はようやく我に返った。

気付くと、棚に陽が当たっている。

部屋の戸は閉めたはずなのに。


ゆっくり、ゆっくりと振り向く。

するとそこには、部屋の入口に立ち尽くす蘇我馬子様の姿があった。


「馬子……さま」

「妹子殿…?」


ここは私の、と呟いた馬子様の腕から零れ落ちた書簡に目が行った。

書簡の緩い紐は解け、中身が見えている。

そしてそこに書かれた隅の字を、僕は見逃さなかった。


「………縁談?」

「妹子殿、私の仕事部屋で何を…」

「馬子様、縁談って…」


僕は手に持っていた書簡を、手元も見ずに棚に戻す。

案の定それは床に落ちてしまったが構わない。

既に僕の足元は中途半端に開いた書簡だらけだから…。


それよりも。

縁談って?


ゆっくりと馬子様に歩み寄る。

後ずさった馬子様の足元にあるそれを拾い上げ、僕は文字を眼で追った。


その書簡には、太子の縁談について書かれてあった。

少しでも地位が高く気品のある女をだとか、一刻も早く伴侶を見つけて世継ぎを残させねばならないとか。

そしてズラリと並べられた女の名前と家、その地位や納税の程など。

実に小さな字で羅列された名前の数々にグルグルと頭が回った。

眩暈に意識を落としそうになりながら首をめぐらせて見つけた書簡の末文の名。

――蘇我、馬子。





ピンと、細くて鋭い糸が張られたかのように思考が繋がった。

ああ、そういう事か。

何となく、そうじゃないかとは思っていたけれど。


僕は書簡から顔を上げないまま、すぐそこに立ち尽くしているだろう馬子様に問いかけた。


「そんなに太子に結婚してほしいんですか…?」

「あ…当たり前だ。彼の結婚は、朝廷内の誰もが望んでいること…」

「誰もが。へえ…誰もがですか。それってどこの朝廷です?」

「妹子殿…お前は」


ガンッ!と木の割れる高い音がしたかと思えば、妹子と馬子の足元で書簡は大きく割れていた。

飛び散った破片が妹子の頬や手を傷付ける。

目を見開いた馬子を、頬から一筋の血を垂らした妹子が視線で貫いた。


「そうですか…貴方が」


妹子の声が、恐ろしいほどに冷たい。

ゾワリと背中が粟立ったのを認めたくないまま、馬子は後ずさる。

それを追う妹子の真白い裸足。

トスッという小さな音と共に馬子は壁に追い詰められていた。

割れた書簡を壁に突き立て、頬の血をペロリと舐めて嗤うその姿。

あの呑気な聖徳太子が「妹子」「妹子」と騒いでいた世話役は本当にこの男なのだろうか?


「身の危険を感じて下さい、馬子様」


空いた右手をヌッと掲げる妹子。


「可哀想な太子。貴方のために、あの人がどんなに苦しんだことか…」


小指を曲げる、その手。


「貴方が太子を良く思っていないこと、正直僕には好都合でした」


薬指。


「もし太子が「馬子さん」「馬子さん」って煩かったらどうします?考えただけでもゾッとしません?」


中指。


「ああ、でもどちらにしろ関係ないですね…貴方が彼を嫌うことで、彼は傷付いていた」


人差し指。


「僕を太子から遠ざけたという所業も忘れてないでしょう?傷付いたんですよ、アレ…」


最後に親指を折り、拳を握ると共に妹子は囁いた。


「つまりですね、貴方――」





――気に入らないんだよ。





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