恋愛狂騒

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その森の中には、綺麗な水を湛える池がある。

そしてその池の中には、太子が友人と呼ぶ生物が住んでいる。

池からひょこっと顔を出した彼に、太子は「やあ竹中さん」と挨拶をした。

「やあ太子」と返したのはフィッシュ竹中で、後頭部から生やした魚の尾をゆらゆらと揺らしている。


「太子、今日は一段と嬉しそうだな」

「あ、分かる!?今日さ、妹子に会ったんだけど…」

「ああ…」


イナフか、と竹中は呟いた。

太子は妹子のことを本名で呼ぶが、竹中は最初に間違って教えられたイナフという名前で妹子を覚えていた。

よく遊びにくる太子の口から近頃頻繁に出るようになった妹子という名前。

今ではその名前を聞かない日はなく、毎日のように妹子のことを話してくる。


「前まではツンツンしてたけど、最近は結構優しいんだよなー」

「そうか。それは良かったな」


太子が生き生きしている。

太子とは それなりに長い付き合いをしているが、こんなに幸せそうな太子を見たことはあっただろうか?

ニコニコ、というよりはデレデレしている太子を、竹中は思わず頬を緩めながら見つめていた。


「今日さ、いっつも顰めっ面してる妹子が笑ってくれてさ…しかも二回も!妹子は天使みたいだなぁ〜!…いや、天使見たことないけど絶対あんなんだな。竹中さんはどう思う?」

「……それは難しい質問だな。太子、私はイナフを見たことがない」

「あぁー、そうだったっけ」

「太子の大切な人だ。一度見てみたいな」

「竹中さんが私以外の人間と会っているのを見たことが無いな…」

「……そんな事はないよ」

「え、そう?」


太子は何だかびっくりしたような顔をしたが、すぐに笑って「妹子は可愛い」だの「目の保養」だのと言い出した。


太子以外にも、数人の人間を見たことがある。

言葉を交わしたこともあるよ。

人間………だった、人と。










勤務時間も随分過ぎた夜。

僕は すっかり暗くなった朝廷からの帰り道を一人で歩いていた。

太子に会った時、僕は自分の仕事をほとんど終わらせていたが、その後 急に大量の仕事が舞い込み、残業をするはめになってしまった。


「もう真っ暗だ……気味が悪いな…」


顔を顰めて再び歩き出したとき、道の端から、ピチャン、という水の音が聞こえた。

即座に そっちを向いて考えれば、確かこの辺には小さな池があったはずだ。

本当に狭い水溜まりのような池に鯉が数匹泳いでいたのを覚えている。


「鯉か…」


合点がいって踵を返そうとしたとき、「待ってくれ」と男の声が聞こえて再び素早く池の方を見た。


「だ、誰だ…?」


暗闇に目を凝らすと、池に反射した月明かりが ぼおっと、僕よりも背の高い男性の姿を浮かび上がらせた。


「!?」


目が慣れてくると、珍しい金髪に青眼であるということまで分かるのだが、僕はその金髪の後頭部に…幻覚でなければ、何か魚的なものがついているように見えた。

雰囲気は幽霊のようだが姿は まるで妖怪だ。

僕が絶句していると、その人は僕の爪先から頭までを見つめたあと、「イナフ」と言った。


(イナフ?死の呪文か何かか?)


不気味だけど殺気が全く感じられない。


「…小野イナフ」

「小野、イナフ?」


「僕は小野妹子ですけど…」と呟くと、彼は急にピチッと魚の部分を割と激しくはためかせた。


「ひっ!?」

「そうか。君が小野イナフだな」

「だ、だから小野妹子なんだけど…」


その時、彼の不可解さが連想させたのか、ふと頭に太子が浮かんだ。

そして目の前の魚人間を見て、以前 太子が『フィッシュ竹中』とか言う変な名前の友人の話をしていたことを思い出す。


(まさか……この人が?)


思案していると、また彼が口を開く。


「天使か」

「えっ?」

「天使……天使を見たことがないから分からないな」

「………あの、太子のご友人、ですか?」

「ああ。太子とは長い付き合いだ」

「あ……」


やっと会話が成り立ったと思ったが、何か腑に落ちなかった。

急に竹中さんの目が射止めるように僕を見る。


「……先天と先天…」

「え…?何言って――」

「イナフ」

「……っ」

「…小野、イナフ」


それだけ言うと、彼は踵を返して歩いていってしまった。

…止めることは、出来なかった。


あんな鋭い目で僕を見て、咎めるような声で僕の名前(に似た名前)を呼ぶから…。


「………竹中さんは僕のこと…嫌い、なのかな?」


悲しくて理不尽だった。

僕が一体何をしたというのか…。

太子の友達……次に会えたなら、もっとちゃんと話がしたいと思った。




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