BOOK_EINBRECHER
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29・泥棒、引っこ抜かれる。
次に目を覚ますと、部屋の外が明るくなっていて、小鳥が囀る声が聞こえてきた。
朝だ。
あさき――いろはは布団の中でぼんやりしながら静かな部屋の天井や壁を眺めていた。
宿をとるなんてことはあまりないが、そんないろはからでも、この部屋は何の変哲もない宿の一室に見えた。
ふと枕元を見ると、お盆の上に湯呑みが一つ置いてあった。
ここ数日まともに水も飲んでいなかったいろはは、それを見て我慢できずに動き出した。
布団の中でうつ伏せになり、上の方まで腕の力だけで這いずっていく。
そして湯呑みを手に取ると中に水が入っていることが確認できたが、正直ここまでするのが精一杯だった。
もう息が上がってしまって、落ち着いて水を飲める状態ではない。
「ハァ……」
あまりの情けなさに息を吐いて、水を飲むのはもう少し待つことにした。
息を整えながら何気なく布団の近辺を見遣り、布団のすぐ横に寝転がっている人に湯呑みを取り落としそうになった。
「いッ……いんちょう……!?」
伊作が昨日の服装のまま、結った髪も解かずに横になって寝息を立てていた。
その寝息があまりに静かすぎて今まで気付かなかった。
伊作のそばには包帯や布や薬が散らかっている。
そして自分の腕を見てみれば、しっかりと包帯が巻かれていた。
布団の中の足にも、自分の首や背中にも手当てが施されているのが分かった。
胴体の前面、つまり胸や腹に手当ての跡が一切ないのは、そもそもそこに怪我をしていないからだった。
町人達に痛めつけられていたときはずっと地面にうつ伏せになったり蹲ったりしていた。
それは性別がバレるのが嫌だったからというのもあるし、背中か腹を叩かれるなら背中の方が痛みはマシだと思ったからでもある。
顔は口布や頭巾の上から何度も殴られたので怪我を免れず、頬にもガーゼが貼られていた。
そして町人に物をぶつけられた額にも、しっかりと包帯が巻かれていた。
この傷が恐らく一番ひどいだろう。
それらの手当てを、伊作は一晩で済ませてくれたのだ。
一度ならず二度までも救ってくれる。
いろはは湯呑みを盆の上に戻すと、音を立てないようにそっと伊作の方へ寄って行った。
伊作の手や服がところどころ血で汚れているのは、きっといろはのものだろう。
伊作の寝顔というものを見るのは初めてで、穏やかな寝顔がなんだか可愛らしいと思ってしまうのを、いろはは小さく頭を振って止めた。
命の恩人の寝顔に和んでいる場合じゃない。
感謝してもしきれないし、謝っても謝りきれない。
今すぐにでも頭を下げて今の気持ちを述べたいところだが、ひとまずは、今まで自分が使っていた布団に手を伸ばした。
掛け布団をそっと伊作にかけて、やっぱりこれだけでもかなり疲れたので、そばに座り込んで休む。
肩で息をしながらも、伊作の寝顔を見つめて、思わず微笑んでいた。
「委員長……ありがとうございます……」
結局は伊作の寝顔にデレデレしてしまいながらそばに座って湯呑みに手を伸ばし、今度こそ冷えた水に口を付けた。
乾いた喉が潤って癒される。
いろはは穏やかな心地になって、ほう、と息を吐き――
「そんな和んだ表情、私のところでは一回も見せなかったのにね」
「ブフッ!?」
後ろから突然かかった声に二口目の水を噴き出した。
「ゴホッ!なっ、なん……!?」
咳込みながら、他に人の気配はなかったはずだと混乱する。
「あ、ああぁ水が!委員長に!ああぁ私はなんてことを……!!」
冷たい水に反応してか、いろはの大声に反応してか、伊作が顔を顰めている。
あたふたと拭くものを探しながら振り向けば、そこには全身真っ黒の男がいた。
その黒い忍装束の中からは包帯が覗いている怪しい男だ。
「雑渡昆奈門さん……また貴方ですか……っ」
「水に関しては私は何も悪くないよ?」
「貴方がいきなり声なんかかけるからじゃないですか!」
「いや、元泥棒で現役忍たまだったキミなら突然声をかけたところで水なんか噴かないだろうと……。こういう場合、話は別みたいだね」
伊作を見下ろしながらそう言われて、いろははグッと答えに詰まった。
仕方なく近くにあったガーゼの切れ端を掴んで伊作の頬を拭おうとするが、それより先に伊作が小さく唸った。
「ん、ん……?」
ぼんやりしながら目を開けて起き上がった伊作がいろはを見て、次にその後ろにいる昆奈門を見て、目を瞬いた。
「……あれぇ……寝ぼけてるのかな、あさきの後ろに雑渡さんみたいな背後霊が……」
「……あさきくんの態度も大概失礼だけど、今ばかりはキミの方がよっぽどだよ伊作くん」
人を死人扱いだ。
「というより、あさきくんなんて呼ばずいろはちゃんと呼んであげた方がいいのかな?」
眠そうに目を擦っている伊作を余所に昆奈門が首を傾げ、いろはは溜息を吐く。
「この際どっちでもいいです。どっちみち、貴方に呼ばれるとなんか気持ち悪い……」
「忍術の師匠相手につれないなァ……」
「私の師匠は忍術学園の先生方と伊作委員長です。貴方はただの情報源ですから!」
やれやれと頭を振る昆奈門にキッパリ言い放つと、ようやく目が覚めたらしい伊作がいろはの方を見て微笑んだ。
「あさき!目が覚めたんだね、結構元気そうで安心したよ――あ、あさきじゃなくていろはだったね」
「いいえ!伊作委員長のお好きなようにお呼び下さい」
「そっか、じゃあ……いろはだね」
「はい!」
「……すごい差だね、ちょっと依怙贔屓しすぎなんじゃないかな」
「貴方は黙ってて下さい」
「あさき――じゃない、いろは、雑渡さんと仲悪いの?」
「いいえ、委員長がお気になさるようなことじゃありません」
昆奈門には見向きもせず冷たい言葉を、伊作にはにこにこと笑いながら柔らかく受け答えをする。
泥棒故の器用さはこんなところにも表れるのかと伊作は妙に感心した。
「それより僕……なんか濡れてるんだけどこれって」
「ああ、それはね伊作くん――」
「あああぁ!いいから本当お前黙ってろよ!」
いろはは慌てて昆奈門の言葉を遮ってその場に土下座した。
「委員長、すみません!それは俺が雑渡昆奈門に驚いて、飲んでた水を、その……!」
「……いろはの?」
「は、はい……私のです」
俺だの私だの敬語だのタメ口だの、色々混ざって混乱している。
伊作は呆然としながら自分の額を拭った。
「水が飲めたの?しかも、この布団……」
「すみません、それも私が勝手に……!」
「水を飲んだり布団を動かしたりできるほど回復してたんだね!すごいよあさき!!」
あまりに見当違いな感動にいろはと昆奈門も唖然とした。
怒られこそすれ、まさか感激されるとは思っていなかった。
感激のあまり、またいろはのことをあさきと呼んでいる。
「委員長、怒らないんですか……?」
「怒らないよ!これぐらい平気だし、むしろ昨日の方が大変だったし……」
そうだ、昨日伊作は夜通しいろはを手当てしてくれたのだ。
いろはを捜して見つけて助け出して。
いろははもう一度頭を下げた。
「待ち合わせの約束を破ってすみませんでした……貴方に嘘を吐いて、名前も性別も嘘を吐いて、動揺してたとは言え、乱暴な口調で喋って、沢山ご迷惑をおかけして……!」
「いろは、顔を上げてよ……昨日も言ったじゃないか。僕だっていろはに謝りたいことがあったし、それをいろはは許してくれたでしょ?それだけで充分だよ」
「委員長……!」
あんなもの、許すとかそういう次元の話ではない。
この男は一体どこまで優しいのか分からない。
いろはが何も言えないまま感動していると、しばらく黙っていた昆奈門が口を開いた。
「……とにかく、伊作くんは無事いろはくんを助けられたようで良かった。安心したよ」
「あ、はい……雑渡さん、ありがとうございました」
そう言う伊作にいろはが首を傾げれば、昆奈門が「伊作くんにキミの居場所を教えたのは私だからね」と答えた。
いろははそれを聞いて顔を顰める。
伊作といろはの両方と接触し、ちょこちょこと手助けをしてくれる胡散臭い人物。
見れば、伊作も昆奈門のことに関しては疑問が沢山残っているような釈然としない表情だった。
「あの……雑渡さんはどうして僕にいろはのことを教えてくれたんですか?いろはとも知り合いみたいだし……」
「いろはくんはまだ話してなかったのか?……伊作くん、いろはくんが学園に編入する前、キミのことを捜していたいろはくんに情報をやったのは私だよ」
「!」
伊作に確認するように見られて、いろはも戸惑いつつ頷いた。
「伊作委員長を捜してる最中、色々あってこの人に助けられて……それで委員長のことを教えてもらって、学園への編入手続きを手伝ってもらったり、忍たまになるために特訓させてもらったりしてました。……入学金もほとんどこの人の援助……です……」
非常に不本意だが、そうだ。
なんとか言いきった言葉に伊作が目を見開いている。
そうして昆奈門を見る伊作の目が“なんでそこまで”と雄弁に語っている。
しかもそれはけして良い返事を期待しているものではない。
昆奈門がそこまでするからには、きっと何か複雑な理由や企みがあってのものではないかと警戒している目だ。
昆奈門はそれを当然悟ったように肩を竦めた。
しかし目は楽しそうに細められる。
そして悠々と言い放った。
「まあね。伊作くんが関わっていたからというものあるが、ついでの理由としては……いい子に育てばいずれウチで引き抜こうと思って」
タソガレドキ忍者隊に、いろはを。
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