OTHERSHORT
□Lucifer Item:携帯電話
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カフェに入ると、男は店員と軽くやりとりを済ませ、気付けば私は見知らぬその人と向かい合って席に座っていた。
(な、なんでこんなことに……)
唖然とする私の前に、店員が水の入ったグラスを置く。
男は店員にコーヒーを二杯頼んで、店員が去った後で「あ」と声を上げた。
「すまない。コーヒーは苦手だったか」
訊いているのか思い出しているのかよく分からないイントネーションだ。
けれど私と彼は他人なのだから、きっと前者だろう。
彼が私のコーヒー事情を知るわけもない。
「別に、大丈夫ですけど……」
どうせ飲まないのでそう言うと、彼は「そうか」と呟きながら携帯電話を出してきた。
「急に連れ出して、怒っていたなら謝るよ。訊きたいことがあったんだ」
「……それって」
もしや、アドレスや番号ではないだろうか。
微塵もそんな感じがしなかったのでナンパではないだろうと思っていたが、ここで考えられるのはそれしかない。
男はテーブルの上で携帯電話を開くと、困ったように笑いながら画面をこちらに向けた。
「着信したときに音が出ないようにしたいんだが、どうやるのか教えてくれないか?」
「……え?」
沈黙。
しばらくして私が「マナーモードですか?」と言うと、男は低く落ち着いた声で笑った。
「私の知り合いがこの音にキレてしまってね……。集中しているところを邪魔されたくないようだ」
「お知り合いの……お仕事か何かを邪魔してしまったんですか?」
「そんなところだ」
そりゃ知り合いでなくても怒るだろう。
携帯電話のマナーモードなんて常識すぎるマナーなのに、そんなことも知らない人がいるとは思わなかった。
いたとして、子どもかお年寄りぐらいだろう。
それでもないとしたら、
(……携帯を買い換えたばっかりなら、ボタンが分からないこともあるかも)
そう納得することにした私は、男の携帯をおずおずと受け取った。
携帯の側面を見れば、案の定“マナー”と書かれたボタンがあって、簡単に設定することができた。
「できましたよ」
「もうか?」
男は驚いたように目を瞬き、テーブルに身を乗り出してきた。
「どうやったかもう一度見せてくれないか?」
「はい。えっと、ここのボタンを……」
ボタンと画面が見やすいように、私もテーブルに身を乗り出す。
説明しているうちに距離が近付き、携帯電話を弄ってはしゃぐ女子高生のような絵面になってしまった。
サイレントやバイブレーション、ドライブモードなど、マナーモードについて色々と説明して、気付けばものすごく近い位置にいた。
「……なるほど。そうなっているわけか」
やっと納得したように笑う男が少し動くと、香水のような上品な匂いがした。
“男の香水”というものは、一歩間違えれば大惨事になりそうなものである。
なのに、この人の匂いは全く嫌にならなかった。
(これがフェロモンというものか……)
何となく居心地の悪さを感じているうちに、男が私から携帯電話を受け取っていた。
「助かったよ、ありがとう。携帯を渡してすぐに操作が分かるというのは……さすが、君達が生み出した知恵の結晶と言ったところか」
「は、はあ……」
よく分からない。
曖昧に返すと、男は上機嫌に笑ったままで携帯電話を弄った。
「この頃の携帯にはまだ……いや、もう、か。赤外線でデータを送受信する機能があっただろ?あれをやってみたいんだ」
まだだのもうだの、この男の言っている意味が分からない。
ただ、新しく携帯電話を買ったお年寄りのように機能を使いたがってはしゃぐので、私は「それなら」と自分の携帯を出した。
「何か適当な画像を送りますから、受信してみますか?例えば……えっと、こんな画像とか」
以前友達から送られてきた、ペットショップの犬の写真だ。
“こんなの飼いたい!”なんて相談を受けていたが、彼女は結局多忙だとかで諦めてしまった。
「犬……だったかな。それで構わないよ」
だったかなも何も、思い出すまでもなく普通に犬の画像なのだが、そこには敢えて突っ込まずに赤外線通信メニューを選んだ。
「何処から赤外線が出ますか?」
「ああ……ここかな」
携帯をくるりと回してこちらに差し出す男。
送受信中もやたら楽しそうにしていた。
「……受信できましたか?」
「ああ。画像もしっかり届いたよ」
男は携帯の液晶を楽しそうに眺めながら続けた。
「ありがとう、楽しかったよ。一度やってみたかったんだ。この礼はいずれ……そうだな、近いうちに」
「え?いえ、そんな」
そろそろ本格的にナンパの典型的な流れになってきた。
ここでようやく連絡先を聞いてくるかと思い、携帯を握りしめて身構えた。
しかし男は携帯電話を閉じると、それをポケットにしまった。
そして、いつの間にか席に運ばれてきていたコーヒーカップに手を伸ばす。
「そうだ、名前を訊いてもいいか?」
「名前……ですか?」
名前だけでいいのか、と思ったが、それはそれで大切な個人情報だ。
迷いに迷った結果、そこはかとなくビジネスライクに苗字だけ名乗ることにした。
「……奥山です」
「奥山か。私の名前は……」
そこまで言って、彼がふと私を見た。
当然、彼の言葉の続きを待っていた私は呆気に取られる。
そんな私を見た彼が、ふっと笑って「やっぱりな」と呟いた。
「この調子だと、君には次も忘れてもらった方が良さそうだ」
「え……?」
「……私の名前はルシフェル。天界に住んでいると、データのやりとりをすることもなくてね。ついでだから、携帯電話を使った決済も試してみるか。……今度は着信音であいつの旅を邪魔しないよう、気を付けるよ」
ルシフェルなどと大層な名を名乗った男が席を立つと、赤い瞳が揺らめいてハッとした。
「あの……っ!」
慌てて立ち上がったが、テーブルと椅子に挟まれて上手く動けない。
男は、そんな私を見て面白そうに目を細めた。
身動きが取れない私に、テーブル越しに顔を近付けてくる。
「どうせなら最後に一つ、こんな劇薬も有りか」
そして頬に、チュ、と柔らかい感触を感じた。
それがキスだとすぐに分かり、喉から引き攣った変な声が出る。
「ひ、ぃ……い、今……っ!」
頬を押さえながら吃る(どもる)私に、男は優雅に椅子を戻しながら左手を翳した。
その左手の中指と親指がゆっくりと触れ、そして擦り合わされる。
落ち着き払った低い声がして、
「すまない、時間切れだ」
パチン、と弾けるような音がした。
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