OTHERSHORT

□Lucifer Item:傘
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夕方、やっぱりというか、案の定、雨は降っていた。

昼過ぎから降り始めて、結局帰る時間になってもやむことはなかった。


建物の入口で手を伸ばし、指の先に雨を受けてみる。

前の道を行き交う人々の傘の濡れ具合が示す通り、なかなかの降水量だ。

このまま道を歩けば、家に着く頃には濡れ鼠になっているだろう。

コンビニに傘を買いにいく手もあるが、ほんの数百円だって勿体無い。


(……濡れて帰ろうか)


そういう気分のときもある。

びしょ濡れになって、周りから変な目で見られて、家でぐしょぐしょの服に苦笑いしながらお風呂に入ろう。

で、お風呂上がりに何か温かいものでも飲もう。


スッと雨の下に踏み出す。

雨は予想以上に強くて、しかも更に勢いを増している。


「うわ……」


しばらくは頭を庇いながら早足で歩いた。

けれどだんだん体が冷たくなってきて、やがて諦めた。

薄暗い曇り空の下、行き交う傘達の隙間を歩く。

雨然りシャワー然り、人はどうして水に濡れると感傷的になるのだろう。

無神経に動き回るいつもの私とは違う、別の自分が歩いていた。

鋭く研ぎ澄まされた感性。

ぬかるむ土が汚いだとか、打たれて揺れる葉が美しいだとか、ボーッとしながら色んなものを見て、感じる。





そんな私の耳に、パチンと空間を割るような、抜ける音が響いた。

代わりに雨や人々の足音、車のエンジンの音など、全ての音が聞こえなくなった。


(え……?)


周りが無音で動き続ける中、私は一人だけ立ち止まり、ゆっくりと振り返った。

傘を持った人々が行き交う中に、黒い男が突っ立ってこちらを見ていた。

黒のワイシャツに、落ち着いた色のジーンズ。

逆立てた短い黒髪を、透明なビニール傘が守っている。

大胆にボタンが開いた胸元とお腹が気になったが、長い手足や美しいボディラインも相俟って様になる。


(……モデルみたい)


顔の造形も美しい。

日本人離れしている気がするが、だからと言って何処の国の人とも言い難かった。


(……私を、見てる?)


一体何なのだろうか、気にせず踵を返して良いものか、考えているほんの少しの間に、男が口を開いた。


「ずぶ濡れだな。風邪をひかないか?」


低くて聞きやすい声で、随分馴れ馴れしい台詞を吐かれてしまった。

突然のことで戸惑ったが、私は濡れた前髪を退けながら曖昧に笑った。


「傘を差すのは苦手で……」

「……これがか?」


男は自分の持つビニール傘を掲げて見ていた。

“傘を忘れた”と言うのが普通だったかも知れないが、そうなると傘を貸してくれたりなんて面倒臭いことになるかも知れない。

男は面食らったようだったけれど、どうせ知らない人なのだから、いくら変わり者だとか思われても構わない。


「君は変わってるな」


そうでもない。

外国に行けば、傘を使わない国だっていくらでもあると思うけれど。


「こんな洗練された道具を生み出したのは君達だろう?使わない人がいるとは意外だったよ」

「はあ、そうですか……」


変な喋り方をする人だ。

もしや新手のキャッチか何かかと思い当たり、そそくさと踵を返した。


「すみません、急いでるので……」



パチン!



また音が鳴った。

途端、踵を返した私の目の前に男が立っていた。


「!?」

「誤解させているようなら、すまない。君を騙すつもりはないんだ」


まるで、私の危機感をそのまま読み取ったかのような言葉。

慌てて振り向いたが、そこにもう彼はおらず、一瞬で私の前に回り込んだのだということが分かった。


(どうやって……)


おかしいのはこの男だけではない。

気付けば、私の周りにいる傘達の動きがぴたりと止まっていた。

この世の何もかもが停止して、その中に雨が降り続くだけだ。

雨の音だけは世界に蘇り、冷たい音を響かせていた。

これは夢か何かだろうか。


「あの……どちら様でしょうか?」


背中に嫌な汗をかきながら訊くと、彼は顎に手をやって「そうだな」と呟いた。


「答えても構わないが、きっと君はすぐに忘れてしまうからな。それよりも、ほら」


ビニール傘を差しかけられ、私に雨がかからなくなった。

けれど代わりに、男性の肩や背中に雨が当たっている。


「あの……」

「家まで送っていこう。急ぐなら、時間はしばらくこのままにしておくよ」

「え、」


男が私の肩を抱き、歩き出した。

連れられながら振り返っても、人々は傘を差して動きを止めたままだ。

今の状況を、普通ならタチの悪いナンパや誘拐、キャッチセールスだと考える。

けれど、それらすら成し遂げられないようなことを、彼はやってのけている。

私の肩を抱いて歩く男の顔を見上げると、彼も私に気付いてこちらを見た。

そして、何か面白いものでも観察するような、好奇に染まった目を細めて笑った。

癇に障る目つきだ。

けれどその瞳が赤いことに気付いたとき、彼の優越を孕んだ笑みに説得力が生まれた気がした。

この人は私を見下している。

それも、無意識に。

人間が愛玩動物を見る目にも言えるように、超越していて当然、という潜在意識がこの人の中にある。

けれどそんな小さな存在が、自分の予想を超えて何をしでかすのか。

期待して、馬鹿にして、寵愛して、そんな支配。

そのせいか、私は怒ることも怯えることもできなかった。

頭は混乱しているのに、心がこれ以上ないほど落ち着いている。

肩に回る腕に、絶対的な安心を感じる。

馴れ馴れしく肩を抱いて連れられて、なのにこんなに大人しくしているなんて。


(……ただの間抜けじゃないか……)


これでは何をされても文句を言えない。

けれど、私はふと男を見上げて首を傾げる。


「……随分嬉しそうに、傘を差してらっしゃいますね……?」


ビニール傘の内側の、細い鉄の骨が複雑に連結している部分。

その辺を見上げて楽しそうにしていた男が「ああ」とこちらを見下ろした。


「人間が生み出した知恵の結晶は数あれど、私はこれが特に好きでね。一度こうするのが夢だったんだよ」

「……傘を差すのがですか?」


私が首を傾げると、男も苦笑して首を傾げた。


「さあ、どうかな」


それくらい曖昧にする必要もないのに、とモヤモヤしながら傘を見上げる。

相変わらず私の肩を抱き続ける大きな手。

何故か私は、いつの間にかすっかりその不思議な感覚に身を委ねていた。














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