OTHERSHORT
□穢れなき愛を捧ぐ
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「芭蕉さん」
「ん?」
胸に大切な縫いぐるみを抱き、宿屋の縁側から降りて庭を眺めていると、後ろから弟子の憮然とした声が聞こえた。
こんな趣のある素晴らしい庭を目にすることができて、芭蕉の心は躍っていた。
それに彼の声が低いのはいつものことなので、芭蕉は さして気にもせずに、笑顔で振り向いた。
視界に飛び込んできた予想通りの ふてぶてしい表情。
しかし予想外の――
「曽良くん、どうし――」
宿の台所から掻っ払ってきた包丁は、大絶賛してやってもいいほど、それは素晴らしい切れ味だった。
昼食に出てきた煮物の具も断面がスッと綺麗に切れていたな、と思い出して、曽良は にんまりと笑った。
きっと玄人の手によって丹念に成形されたのだろう、高そうな包丁の刃に刻まれた立派な銘は、温かな鮮血に塗れて見えなくなってしまった。
「…かはっ、」
ごぼ、と逆流する音の後に、ビシャッ、と芭蕉の口から血が飛んだ。
目からは涙が滲み、絶望に光っている。
「そ…ら、くん?何し……でっ」
ぐり、と手首を捻ると刃の先で瑞々しい肉が掻き回される可愛らしい音がした。
ぐちゃり、にちゃり。
水の音にも似ている。
生命の音だ。
愛しい。
儚くて切ない。
生とは性でもある。
夜の営みに聞くあの音にも似ている気がする。
嗚呼、卑猥だ。
淫猥で淫靡で魅力的。
ゾクゾクする。
曽良は己の欲望が急激に高ぶるのを感じた。
腕を引いて一気に引き抜くと、貧相な身体は素直にフラリと倒れてきた。
曽良は包丁を落とすように捨て、師匠を刺した その手一つで支えてやる。
布か何かを抱えているかのように軽かった。
「…私……死ぬ、の…?」
「そうです」
「ど…う…し……て……?」
着物や足を伝い、赤い血が滝のように流れ落ちている。
曽良は恋人を抱くかのように、芭蕉の小さな身体を抱え直した。
「僕が……若すぎたからです」
細い腕から縫いぐるみが落ち、両目は力無く曽良を見つめたまま動かなくなってしまった。
曽良は柔らかい身体を姫抱きにする。
足元の草臥れた縫いぐるみを見下ろして、
「……フン」
地面の砂とない交ぜにするように踏み散らした。
主が旅に出てからと言うもの、長い間 人の気配を感じさせなかった芭蕉庵に、一人の若者が帰ってきた。
やけに大きな荷物を抱いて。
若者は庵に入ると外部をいっさい遮断して閉じこもり、滅多に出てこなくなってしまった。
近所は気味悪がった。
気弱でありつつも心優しい俳聖が住んでいた優しい土地に、
死体愛好家が住み着いたのだから無理もない。
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