OTHERSHORT
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その頃、いろははやけに上機嫌だった。
リビングの花瓶の水をかえていた黒子が、テーブルで絵を描くいろはの後ろ姿を観察する。
るんるんと鼻歌を歌いながら、青のクレヨンで何かを描いている。
やけに楽しそうな様子を見て、黒子は目を細めながら、画用紙を覗き込んだ。
「楽しそうですね、いろはさん。何を描いているんですか?」
「おさかな!」
いろはは目をきらきらさせながら言った。
「こんど、おとうさんとおかあさんが、水族館につれてってくれるの……!」
椅子から降りて、黒子の腕にぎゅっと抱きつくいろは。
「くろこのおにいちゃんもいっしょ!」
「僕もですか?」
「いろはと、おにいちゃんと、おとうさんと、おかあさん!」
黒子がいなければ、いつも一人で遊んでいるしかないような子どもだ。
みんなで出かけられることが本当に嬉しいようだ。
黒子も思わず微笑みながら、いろはの頭を優しく撫でた。
「楽しみですね。“今度”っていつですか?」
「あと三回ねたら行けるんだよ!」
「あと三回……今週の日曜日ですね」
脳内で瞬時に計算して、黒子は呟いた。
嬉しそうにピョンピョン飛び跳ねるいろはと目の高さを合わせるように、そっと屈む。
「じゃあ、それまでいい子にしていましょう。悪いことをしてお父さんとお母さんに怒られたら、水族館に行けなくなってしまいます」
「うん!」
わざわざこんなことを言わなくても、いろはは基本的に素直でいい子なのだが、やっぱりまだまだ子ども故に好奇心旺盛で、時々悪戯をしたり、寂しさのあまりにダダをこねたりすることがある。
せっかく両親がちゃんと躾をしているのだから、自分もいろはをしっかりと教育していかなくてはならない。
(責任重大です……)
お絵描きを再開したいろはの後ろ姿を見守りながら、一人でそう実感する黒子。
一匹、魚を描き終えたいろはがこちらを振り向いて、本当に幸せそうに微笑むので、黒子も微笑みながら頷いた。
小さな両手で受話器を抱えながら、いろはは大きな目にいっぱいの涙をためていた。
彼女が時々こくりと頷くたびに涙が零れ落ちそうに様子を、黒子は人工の胸が張り裂けそうな思いで見つめていた。
土曜日の夜になっても、いろはの両親は家に帰らなかった。
不安そうにぐずるいろはを宥めて、「きっと夜中のうちに帰ってくるから」と言い聞かせてベッドに入らせた。
睡眠を必要としない黒子は、真っ暗なリビングの椅子に座り、一晩中、時計の音を聞きながらいろはの両親の帰りを待っていた。
とうとう窓の外が白んで明るくなっても、二人は帰ってこなかった。
朝になって、起きてきたいろはは、寝惚けながら家の中に両親の姿を捜す。
黒子に促されて顔を洗い、歯を磨いて、髪をといて、そしてリビングの椅子にぼんやりと座ったところで、ようやく母親から一本の電話がかかってきて、今に至る。
黒子がわざわざ電話に出なくても、受話器を持って震えるいろはの姿を見ているだけで、話の内容はよく分かった。
きっと仕事が立て込んでいて、帰ってこれないのだろう。
水族館にも行けない。
いろははのろのろと電話の受話器を戻すと、黒子にも顔を見せず、部屋に走っていってしまった。
「いろはさん……」
あれだけ楽しみにしていた外出の約束を、たった一本の電話で台無しにされたいろはの様子を見ていた黒子は、立ち尽くしたまま拳を握りしめる。
(いろはさんのご両親は……勝手です。彼女は今日のお出かけをあんなに楽しみにしていたのに……お二人は、最低です……)
きっと今頃、いろはは部屋で大泣きしているだろう。
二人がいろはのために働いていることは分かる。
仕事が忙しくてどうしようもなかったんだろうということも分かる。
けれど、いろはのことを思うと、彼女の両親への怒りが収まらなかった。
どうにかいろはを元気づけたい。
たとえ自分がロボットでも、今のいろはを笑わせてあげられたら。
(彼女のために、僕にできることはあるでしょうか……)
黒子は固い拳を解き、またそっと握りしめ直した。
キッチンで少しだけ準備をしてから、いろはの部屋へ向かう。
「いろはさん、入ります」
ノックをしてから部屋に入ると、いろははベッドにうつ伏せ、時々咳き込むほど酷く泣いていた。
「いろはさん、大丈夫ですか?」
そっと撫でた、子ども体温の温かい背中が震えている。
「う、えぇ……っ、おにいちゃん……!」
ベッドから離れて抱きついてきたいろはを、黒子はぎゅっと包み込むように抱きしめた。
小さな体。
呼吸もままならない嗚咽に苦しむぐらい、それほどいろはにとっては悲しいことだったのだ。
少しでも楽になるように、頭と背中を撫でた。
そして、そっといろはの顔を離して覗き込む。
「いろはさん、見ていてください」
「……?」
涙でぐちゃぐちゃになった顔で見てくるいろはの前に、そっと右手を見せる。
「いろはさんが元気になってくれるように、今からおまじないをかけます」
潤んだ目を瞬くいろはを前に、黒子は右手をグッと握り、わざと苦しそうに顔を顰めた。
「……ッ」
「!?おにいちゃん、だいじょうぶ――」
そして、パッと拳を開く。
開いた右の掌には、いろはが好んでよく舐める飴。
いろはが目を瞠った。
「あ……っ!」
「はい、どうぞ。プレゼントです」
右手から突如として現れた飴を彼女の掌に置くと、いろはは飴を受け取りながら、涙に濡れた目をキラキラと輝かせた。
「すごい……!おにいちゃん、どうやって出したの?」
「いろはさんを元気にするために、僕は少しだけ魔法が使えるんです」
びっくりしすぎたせいか、すっかり引っ込んだ涙。
頬を紅潮させてはしゃぐいろはに、黒子は口元を綻ばせた。
「いろはさん、元気になってくれましたか?」
「うん!おにいちゃん、ありがとう……!」
いろはは、涙の残る目をキュッと拭って頷いた。
(本当は、ご両親と一緒に水族館に連れていってあげられたら一番良かったんですが……)
こんなちょっとした手品だけで、彼女に我慢を強いてしまうなんて可哀想だ。
黒子はいろはの濡れた頬をそっと拭ってやった。
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