ショートショート集

□美しい人
2ページ/3ページ

 心が、身体が。
 僕の全部がそういう美を受け付けない。

 大人になるにつれて、そういった感性は少しずつ薄れては行ったが、まったく消え失せたわけでもない。
 だからこうして、不意打ちのように綺羅綺羅しい光景が目に飛び込んでくると、僕は足に重たい枷をはめられたようにしか動けなくなる。

 僕は、まるで尾を失った魚のようだ。
 地を這うようにずるずると歩を進めることしか出来ず、決して鳥や虫のようには空を泳げはしない。

 嗚呼、なんて息苦しいのだろう。

 水の気配が近い。
 世界は水に沈められたと言うのに、きっと僕はいまだに肺で呼吸をしようとしているのだ。

 泳げなくなった魚。呼吸のできない動植物。
 僕はこの世の理から外れてしまう。
 美しいものを本能的に受け付けられない僕は、光挿す影に取り込まれてまもなく存在を消すのだろう。

 そう思うのに僕は、ずるりずるりと歩を進める。
 一歩一歩、虚しくなる気持ちに負けないように自分を奮い立たせながら。

 僕は海の底を這った。這い続けた。
 すれ違ったカラスがひとつ鳴いて、気持ちよさそうに翼を広げて空を泳いだ。

 足が重くて、水の気配が鬱陶しくて、僕は時々バランスを失いそうになる。
 そのたびに不自由な足を踏みしめる。体中に汗が流れてよりいっそう僕を不快にした。

 僕の血液がもがれた尾からしとどに流れ出しているのかもしれない。
 視界は翳み、それでも天から差し伸べられる光は緩やかに僕の身体に染み込んでいた。

 僕の呼吸は乱れていた。
 そうだな。もし無事に帰れたら、まずは煙草を吸おう。

 荒い呼吸。鉛のような身体。僕の身体を絡めとる、美しい水の世界。


 
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ